青春の迷い道に入ってしまった私は、5教科の追試を受けて、なんとか高校を卒業できた。
卒業延期という処分だったから、最後に一人だけ校長室で校長先生から直接卒業証書を手渡された。ある意味では、贅沢な卒業式だったとも言える。
卒業に苦労した理由は、何しろいろいろと遊び過ぎて圧倒的に出席日数が足りていなかった。担任のN先生の、あの手この手でに助けられてようやく卒業したのだった。
春に卒業した私は、その年の夏に「人生を見つめなおしてみよう」と思ったのかどうかはわからないが、四国の府中ダムに行くことにした。
周りには「●大ぐらい行かないのか」と、当時誰でも入ることができたマンモス大学に行くことを勧められたりしたが、そっちの方向にはまったく興味が湧かずブラブラしていた。かといって、釣りを一生懸命やることもせず、本を読んだり音楽を聴いたり、喫茶店に行くことを、何かすごく価値のあるもののように感じていた。
府中ダムに行こうと思ったのも、釣りに行きたいというより「どこか遠くに行きたい」という気持ちが強かったのだと思う。
手持ちの金に余裕がないので、京都、大阪と裕福な親戚の家に寄り、小遣いをせしめて四国まで渡る計画をたてた。
京都ではうまいこと大げさな熨斗袋に入った小遣いを手に入れ、大阪では帰りの新幹線代をもらった。思いのほかの大収穫だった。
大阪では、千里にある池でへら釣りもした。最初とりあえず底釣りから始めたのだが、しばらくするとウキがムズリと1目盛や2目盛り入ったまま戻ってこない。合わせをくれても何も釣れない。
そこで、当時流行していた「聞き合わせ」をくれてみた。「聞き合わせ」は、ピシッと勢いよく竿を上げるのではなく、「聞く」ように静かな合わせをする。ムクトップを使った釣りやウドンエサでの釣りに有効で、確か「雨月」という繊細なウキを作っていた宇田川さんが始まりだと思う。
そこで、当時流行していた「聞き合わせ」をくれてみた。「聞き合わせ」は、ピシッと勢いよく竿を上げるのではなく、「聞く」ように静かな合わせをする。ムクトップを使った釣りやウドンエサでの釣りに有効で、確か「雨月」という繊細なウキを作っていた宇田川さんが始まりだと思う。
その「聞き合わせ」をすると何かがハリ掛かりをした。石を釣ったような感じだが、モゴモゴと動く感じは伝わってくる。水面に顔を出したのは、15cmほどの甲羅を背負ったけっこう大きな亀だった。それからも、亀ばかりが釣れ、8匹も釣ってしまった。
今のように色のついたミシシッピーアカミミガメではなく黒っぽいクサガメかイシガメのどちらかだったと思う。亀を釣ったのは初めてだった。
神戸からフェリーに乗って高松に渡ったのは、亀を釣った翌々日だった。
宿を予約しているわけでもないので、安いビジネスホテルを見つけ泊まる事にした。
聞いてみると、府中ダムに行くには高松から電車に乗りさらに車での移動が必要だった。地元では満濃池とも言うらしい。
もともと府中ダムに来てみようと思ったのは、たまに顔を出していた釣具店の店主から「四国にへらのたくさん釣れるダムがある。ただしブルーギルという魚がウジャウジャいるのでエサを固めに作ってピンポン玉ぐらいの大きさにして、ブルーギルのいる層を突き破らなければ釣れないんだ」と言われたからだ。
どうやって府中ダムまで行くかいろいろ考えたが、街をぶらぶらしている時にタクシーの運転手さんに声をかけられた。その時は、もう宿を決めていたので釣り道具などは持っていない。それでも地元民ではないという雰囲気が出ていて、観光客だと思われたのだろう。
府中ダムに行きたいと言うと、「よかったら朝迎えに行きますよ」と言ってくれた。帰りも迎えに来てくれるという。片道だったか、往復だったかは忘れてしまったが2千500円という金額が頭の中の残っている。
府中ダムに行きたいと言うと、「よかったら朝迎えに行きますよ」と言ってくれた。帰りも迎えに来てくれるという。片道だったか、往復だったかは忘れてしまったが2千500円という金額が頭の中の残っている。
翌朝4時に運転手さんに迎えに来てもらい府中ダムへ向かった。「ヘラブナ」という魚の事は知らず、東京からわざわざ田舎のダムに釣りに来たということに驚いていた。
1時間ほどもかかっただろうか。府中ダムに到着。運転手さんにゆっくり上流の方に上がってもらった。上り坂を湖面を見ながら上がって行くと、いかにも釣れそうな突端を見つけた。
かなり上流だが、そこだけは道からも降りやすく出っ張りのように突き出していて、いかにもいいポイントだった。夕方の約束をして車を帰して、ヘラブナの跳ねを観察していると、1mぐらいの黒い棒のようなものが浮かんでいるのを見つけた。よく見るとライギョのようだ。
さらに遠くには、こちらに向かってクネクネと泳いでくるヘビを見つけた。
かなり上流だが、そこだけは道からも降りやすく出っ張りのように突き出していて、いかにもいいポイントだった。夕方の約束をして車を帰して、ヘラブナの跳ねを観察していると、1mぐらいの黒い棒のようなものが浮かんでいるのを見つけた。よく見るとライギョのようだ。
さらに遠くには、こちらに向かってクネクネと泳いでくるヘビを見つけた。
驚くほどの大きさではないが、それなりの大きな湖面だった。
突端に釣り座を設置。といっても釣り台などはまだ無い時代なので、パイプ椅子を置き、地面に角度を考えて竿掛けを刺して元受けも地面に刺しただけだ。
竿は4.5mの江戸川。エサは「マッシュに赤べら」という、今の釣り人には何を言ってるのかわからないような古典的な組み合わせ。
少し青緑がかった美しい湖面に、教わったようにピンポン玉より少し大きな白いエサを打つ。
すると数投後には、透けて見える水中に真っ黒になるほどの魚が寄ってきた。そして釣れた。
20cmほどの見たことのない魚だった。ブルーギル。おちょぼ口に面長な顔や少し青みがかった色、ピンと張った大きな背びれなどがどうにも外国産といった感じで、次から次へと簡単に釣れてくる。
仕方がないので、ハリを相模湖の大型へらを釣るために持っている伊勢尼の15号だかに変えてさらにエサを大きくして、水面に叩きつけるように打った。ウキの水深も深くした。水面でエサをバラけさせることによって、ブルーギルを上に寄せてしまおうという作戦だ。
これが当たって、ブルーギルの層を突き抜けるとヘラブナが釣れる。どのヘラブナも30cmを超える、当時としては良型ばかりだ。ときおり40cmに手が届こうかという大型も混じって、入れ食い。まさに天国で釣りをしているような気分だ。
夢中になって釣りをしていると、背後に人の気配を感じた。振り向くと地元の農家の人らしい男性が立っていた。
言葉の多い人ではなく、どこから来たのかとか、何を釣っているのか、ここで釣りをする人は珍しいなどという会話をボソボソと交わした。最後に私が、「この近くにお店はありませんか?」と聞くと、「5キロぐらい降ればあるだろう」と言って去っていった。
さあ困った。私のへら釣り用のバッグには、釣りエサは山のように入っているのだが、飲み水や食べ物はまったく入っていないのだ。
これは、今日は飲まず食わずでの釣りだなと覚悟していると、10時を過ぎたころだろうか。また人の気配を感じた。後ろを見ると、先ほどの農家の男性が立っていて、パンと当時東京では見たことのないペプシコーラの1リットル瓶に入った麦茶をくれた。
とくに会話をすることもなく「これを食べろ」というような簡単な言葉だけ残して男性は帰っていった。もちろん、思いっきりお礼も言ったがそんなことはまったく聞こえないかのようなふるまいだった。
夏のかんかん照りの中、わたしはパラソルもささず帽子もかぶっていなかったから、本当にありがたかった。ギラギラと照りつける太陽の力は凄まじかった。
しばらくすると、周りの山全体が霧がかかったようになった。雨も何もないのに、山だけが煙をかぶったように白っぽく見えるのだ。見たことのない景色だった。
その間にもヘラブナは釣れ続き、当時は釣った魚を入れるフラシと呼ばれるモノを使っていたのだが、それもいっぱいになってしまい、1回空にするほどだった。
昼を過ぎたころにまた男性がやってきて、近くでみんなでご飯を食べるから来いと誘われた。小屋のようなところに引き連れられて行くと7-8人の農家の人たちが集まって食事をしていた。
男性は、私を東京からわざわざ一人でフナを釣りに来た人だと紹介した。
男性は、私を東京からわざわざ一人でフナを釣りに来た人だと紹介した。
驚いた顔をした農家の人たちは、「東京にはフナはいないのか?」とか「面白いのか?」「食べるのか?」などといろいろな質問をしながらも、こんな人がいるのかというような呆れたという感じが伝わって来る。
私が「あの、山が白くなるのはなんなんですか?」と聞くと、中の一人がちょっと自慢そうに「ここはパイロット地区に指定されていて、ほら、あそこに見える山から全部の山に水を回してスプリンクラーが動くんだ」と説明してくれた。ミカンの樹に水やりをしているわけだ。
普段食べたことのないような美味しいお米と野菜の昼ごはんを食べさせてもらい、おにぎりとお茶を持たされてまた釣り座に戻った私だが、田舎の人たちの朴訥とした優しさにすっかり心をうたれてしまった。どの人も言葉を気にしているのだろうか、私に向けての口数自体は少ないが精いっぱいの真心を感じた。
ヘラブナは夕方まで順調に釣れ続き、計ったわけではないが自分の体重を超えるような量を釣ったと思う。私の釣り歴史上、最高の釣果である。
夕方、少し暗くなって来たので道具をしまった。車の時間までまだ少しあるので、へらバッグを背負いながら、下り坂の道をダムの下の方に向かいトボトボと歩いた。空はいい具合に茜色になり美しい。
しばらく歩いていると、「おーい」と呼ばれる声がした。お茶をくれた男性が自転車で帰るのである。後ろの席にはモンペを履いた奥さんがちょこんと横座りをしている。下り坂なので、ペダルを漕ぐ必要はほとんどない。私を追い越す際には「明日もまた来いよー」と声をかけてくれ、奥さんはちょこんと頭を下げて挨拶をしてくれた。
夕焼け空に、いよいよ暗くなって行く山道を仲良く2人で気持ちよさそうに降りて行く姿を、私はいつまでも目で追っていた。
「明日もまた来いよー」と言われた私だが、この約束は果たせなかった。3日ぐらいは釣りをするつもりだったのだが、この日ホテルに帰ったあたりだか帰る途中だかに急激に体調を崩してしまった。
今から考えると「熱中症」と呼ばれる症状なのだが、当時は日射病という言葉はあったが熱中症はなかった。私自身も「急に風邪をひいたのか」程度の認識だった。
その後の記憶はぼんやりしていてほとんど覚えていない。とにかく身体がガタガタ震えるほど寒く、ホテルの人に毛布を持って来てもらった事だけ覚えている。じっと寝ているだけだった。
私の記憶が戻るのは、それからまる1日経った夕方だった。今になって考えると、相当に危険な状態だったと思うが当時は若く「治った」ぐらいの感覚しかなかった。
高松の商店街を少しぶらぶらできるほどには回復し、翌日は栗林公園と玉藻城に出かけた。
四国の府中ダム釣行で最後に記憶に残ったのは、玉藻城の堀である。玉藻城は海水が出入りする不思議な堀だ。城の姿は覚えていないがこの海水の中を泳いでいた1匹のクロダイはよく覚えている。透きとおって見える水中を堀に沿ってゆらゆらと移動していた。ときおり、頭を下にして姿勢を変えたりしていた。
釣れたヘラブナの事や美しかったダムからの帰り道の風景を思い出しながら、私はクロダイを見つめていた。クロダイは私に見つめられている事など、まったく知らないふうで同じようにゆらゆらしながら移動している。私も飽きもせず、同じ動作を続けるクロダイをぼんやりと見続けていた。