2019年10月10日木曜日

【10】四国・府中ダムの釣り

青春の迷い道に入ってしまった私は、5教科の追試を受けて、なんとか高校を卒業できた。

卒業延期という処分だったから、最後に一人だけ校長室で校長先生から直接卒業証書を手渡された。ある意味では、贅沢な卒業式だったとも言える。
  卒業に苦労した理由は、何しろいろいろと遊び過ぎて圧倒的に出席日数が足りていなかった。担任のN先生の、あの手この手でに助けられてようやく卒業したのだった。

春に卒業した私は、その年の夏に「人生を見つめなおしてみよう」と思ったのかどうかはわからないが、四国の府中ダムに行くことにした。
 周りには「●大ぐらい行かないのか」と、当時誰でも入ることができたマンモス大学に行くことを勧められたりしたが、そっちの方向にはまったく興味が湧かずブラブラしていた。かといって、釣りを一生懸命やることもせず、本を読んだり音楽を聴いたり、喫茶店に行くことを、何かすごく価値のあるもののように感じていた。
 府中ダムに行こうと思ったのも、釣りに行きたいというより「どこか遠くに行きたい」という気持ちが強かったのだと思う。

手持ちの金に余裕がないので、京都、大阪と裕福な親戚の家に寄り、小遣いをせしめて四国まで渡る計画をたてた。
京都ではうまいこと大げさな熨斗袋に入った小遣いを手に入れ、大阪では帰りの新幹線代をもらった。思いのほかの大収穫だった。
大阪では、千里にある池でへら釣りもした。最初とりあえず底釣りから始めたのだが、しばらくするとウキがムズリと1目盛や2目盛り入ったまま戻ってこない。合わせをくれても何も釣れない。

そこで、当時流行していた「聞き合わせ」をくれてみた。「聞き合わせ」は、ピシッと勢いよく竿を上げるのではなく、「聞く」ように静かな合わせをする。ムクトップを使った釣りやウドンエサでの釣りに有効で、確か「雨月」という繊細なウキを作っていた宇田川さんが始まりだと思う。

その「聞き合わせ」をすると何かがハリ掛かりをした。石を釣ったような感じだが、モゴモゴと動く感じは伝わってくる。水面に顔を出したのは、15cmほどの甲羅を背負ったけっこう大きな亀だった。それからも、亀ばかりが釣れ、8匹も釣ってしまった。
 今のように色のついたミシシッピーアカミミガメではなく黒っぽいクサガメかイシガメのどちらかだったと思う。亀を釣ったのは初めてだった。

神戸からフェリーに乗って高松に渡ったのは、亀を釣った翌々日だった。

宿を予約しているわけでもないので、安いビジネスホテルを見つけ泊まる事にした。
 聞いてみると、府中ダムに行くには高松から電車に乗りさらに車での移動が必要だった。地元では満濃池とも言うらしい。

もともと府中ダムに来てみようと思ったのは、たまに顔を出していた釣具店の店主から「四国にへらのたくさん釣れるダムがある。ただしブルーギルという魚がウジャウジャいるのでエサを固めに作ってピンポン玉ぐらいの大きさにして、ブルーギルのいる層を突き破らなければ釣れないんだ」と言われたからだ。

どうやって府中ダムまで行くかいろいろ考えたが、街をぶらぶらしている時にタクシーの運転手さんに声をかけられた。その時は、もう宿を決めていたので釣り道具などは持っていない。それでも地元民ではないという雰囲気が出ていて、観光客だと思われたのだろう。

府中ダムに行きたいと言うと、「よかったら朝迎えに行きますよ」と言ってくれた。帰りも迎えに来てくれるという。片道だったか、往復だったかは忘れてしまったが2千500円という金額が頭の中の残っている。

翌朝4時に運転手さんに迎えに来てもらい府中ダムへ向かった。「ヘラブナ」という魚の事は知らず、東京からわざわざ田舎のダムに釣りに来たということに驚いていた。
1時間ほどもかかっただろうか。府中ダムに到着。運転手さんにゆっくり上流の方に上がってもらった。上り坂を湖面を見ながら上がって行くと、いかにも釣れそうな突端を見つけた。

かなり上流だが、そこだけは道からも降りやすく出っ張りのように突き出していて、いかにもいいポイントだった。夕方の約束をして車を帰して、ヘラブナの跳ねを観察していると、1mぐらいの黒い棒のようなものが浮かんでいるのを見つけた。よく見るとライギョのようだ。
さらに遠くには、こちらに向かってクネクネと泳いでくるヘビを見つけた。
驚くほどの大きさではないが、それなりの大きな湖面だった。

 突端に釣り座を設置。といっても釣り台などはまだ無い時代なので、パイプ椅子を置き、地面に角度を考えて竿掛けを刺して元受けも地面に刺しただけだ。
竿は4.5mの江戸川。エサは「マッシュに赤べら」という、今の釣り人には何を言ってるのかわからないような古典的な組み合わせ。
少し青緑がかった美しい湖面に、教わったようにピンポン玉より少し大きな白いエサを打つ。
すると数投後には、透けて見える水中に真っ黒になるほどの魚が寄ってきた。そして釣れた。
20cmほどの見たことのない魚だった。ブルーギル。おちょぼ口に面長な顔や少し青みがかった色、ピンと張った大きな背びれなどがどうにも外国産といった感じで、次から次へと簡単に釣れてくる。

仕方がないので、ハリを相模湖の大型へらを釣るために持っている伊勢尼の15号だかに変えてさらにエサを大きくして、水面に叩きつけるように打った。ウキの水深も深くした。水面でエサをバラけさせることによって、ブルーギルを上に寄せてしまおうという作戦だ。

これが当たって、ブルーギルの層を突き抜けるとヘラブナが釣れる。どのヘラブナも30cmを超える、当時としては良型ばかりだ。ときおり40cmに手が届こうかという大型も混じって、入れ食い。まさに天国で釣りをしているような気分だ。

夢中になって釣りをしていると、背後に人の気配を感じた。振り向くと地元の農家の人らしい男性が立っていた。
言葉の多い人ではなく、どこから来たのかとか、何を釣っているのか、ここで釣りをする人は珍しいなどという会話をボソボソと交わした。最後に私が、「この近くにお店はありませんか?」と聞くと、「5キロぐらい降ればあるだろう」と言って去っていった。

さあ困った。私のへら釣り用のバッグには、釣りエサは山のように入っているのだが、飲み水や食べ物はまったく入っていないのだ。

これは、今日は飲まず食わずでの釣りだなと覚悟していると、10時を過ぎたころだろうか。また人の気配を感じた。後ろを見ると、先ほどの農家の男性が立っていて、パンと当時東京では見たことのないペプシコーラの1リットル瓶に入った麦茶をくれた。
とくに会話をすることもなく「これを食べろ」というような簡単な言葉だけ残して男性は帰っていった。もちろん、思いっきりお礼も言ったがそんなことはまったく聞こえないかのようなふるまいだった。

夏のかんかん照りの中、わたしはパラソルもささず帽子もかぶっていなかったから、本当にありがたかった。ギラギラと照りつける太陽の力は凄まじかった。
しばらくすると、周りの山全体が霧がかかったようになった。雨も何もないのに、山だけが煙をかぶったように白っぽく見えるのだ。見たことのない景色だった。
その間にもヘラブナは釣れ続き、当時は釣った魚を入れるフラシと呼ばれるモノを使っていたのだが、それもいっぱいになってしまい、1回空にするほどだった。

昼を過ぎたころにまた男性がやってきて、近くでみんなでご飯を食べるから来いと誘われた。小屋のようなところに引き連れられて行くと7-8人の農家の人たちが集まって食事をしていた。
 男性は、私を東京からわざわざ一人でフナを釣りに来た人だと紹介した。
驚いた顔をした農家の人たちは、「東京にはフナはいないのか?」とか「面白いのか?」「食べるのか?」などといろいろな質問をしながらも、こんな人がいるのかというような呆れたという感じが伝わって来る。
私が「あの、山が白くなるのはなんなんですか?」と聞くと、中の一人がちょっと自慢そうに「ここはパイロット地区に指定されていて、ほら、あそこに見える山から全部の山に水を回してスプリンクラーが動くんだ」と説明してくれた。ミカンの樹に水やりをしているわけだ。
普段食べたことのないような美味しいお米と野菜の昼ごはんを食べさせてもらい、おにぎりとお茶を持たされてまた釣り座に戻った私だが、田舎の人たちの朴訥とした優しさにすっかり心をうたれてしまった。どの人も言葉を気にしているのだろうか、私に向けての口数自体は少ないが精いっぱいの真心を感じた。

ヘラブナは夕方まで順調に釣れ続き、計ったわけではないが自分の体重を超えるような量を釣ったと思う。私の釣り歴史上、最高の釣果である。

夕方、少し暗くなって来たので道具をしまった。車の時間までまだ少しあるので、へらバッグを背負いながら、下り坂の道をダムの下の方に向かいトボトボと歩いた。空はいい具合に茜色になり美しい。

しばらく歩いていると、「おーい」と呼ばれる声がした。お茶をくれた男性が自転車で帰るのである。後ろの席にはモンペを履いた奥さんがちょこんと横座りをしている。下り坂なので、ペダルを漕ぐ必要はほとんどない。私を追い越す際には「明日もまた来いよー」と声をかけてくれ、奥さんはちょこんと頭を下げて挨拶をしてくれた。
 夕焼け空に、いよいよ暗くなって行く山道を仲良く2人で気持ちよさそうに降りて行く姿を、私はいつまでも目で追っていた。

「明日もまた来いよー」と言われた私だが、この約束は果たせなかった。3日ぐらいは釣りをするつもりだったのだが、この日ホテルに帰ったあたりだか帰る途中だかに急激に体調を崩してしまった。

今から考えると「熱中症」と呼ばれる症状なのだが、当時は日射病という言葉はあったが熱中症はなかった。私自身も「急に風邪をひいたのか」程度の認識だった。
その後の記憶はぼんやりしていてほとんど覚えていない。とにかく身体がガタガタ震えるほど寒く、ホテルの人に毛布を持って来てもらった事だけ覚えている。じっと寝ているだけだった。

私の記憶が戻るのは、それからまる1日経った夕方だった。今になって考えると、相当に危険な状態だったと思うが当時は若く「治った」ぐらいの感覚しかなかった。
高松の商店街を少しぶらぶらできるほどには回復し、翌日は栗林公園と玉藻城に出かけた。

四国の府中ダム釣行で最後に記憶に残ったのは、玉藻城の堀である。玉藻城は海水が出入りする不思議な堀だ。城の姿は覚えていないがこの海水の中を泳いでいた1匹のクロダイはよく覚えている。透きとおって見える水中を堀に沿ってゆらゆらと移動していた。ときおり、頭を下にして姿勢を変えたりしていた。

釣れたヘラブナの事や美しかったダムからの帰り道の風景を思い出しながら、私はクロダイを見つめていた。クロダイは私に見つめられている事など、まったく知らないふうで同じようにゆらゆらしながら移動している。私も飽きもせず、同じ動作を続けるクロダイをぼんやりと見続けていた。
  

2019年9月18日水曜日

【9】武者小路実篤さんと釣り

中学生だったころの私は、それこそ「水癲癇(てんかん)」ともいう状態だった。
とにかく水がある所ならどこにでも竿を持って行き、ハリの付いたエサを投げ入れてみた。

近くにある学校の池や病院の池では、警備員さんに追いかけられ、井の頭公園ではお巡りさんにしつこく説教されているところを「ガキのやったことじゃねえか。もういいだろ」とちょっと怖そうな人に助けられたりもした。

玉川上水の近くにあった養魚池の15cmほどの錦鯉を釣り、紙に学校名と名前を書かされ釣竿を没収されたこともある。

多摩川の近くでは、「秘密の釣り場を見つけた」と思い込んで大きな水溜りでよろこんで釣っていたら「ここには魚なんていないよ。掘ったばかりの砂利穴だから」と言われがっかりした。

そんな中の一つに、忘れられない池がある。

私の住んでいる世田谷から自転車で多摩川に行くには、どの道を選んでも行きは下り坂、帰りは上り坂になる。それもかなりの急勾配だ。

行きの下り坂は楽なので、だいたい同じ道を通るのだが、帰り道はいろいろな道を試してみた。

勾配は緩いがダラダラと長く続く道や、とてもペダルを漕ぎ続ける事が出来ないような急勾配だが、坂になっている部分が短いコースがあった。

急勾配の道の一つに、斜面になっているところを通る細い道があった。
その道沿いの広い家には樹木がたくさん植えられ池があり、色の付いた鯉や黒い鯉が悠々と泳いでいた。

道沿いに続くフェンスの金網を乗り越えればすぐにその池だ。

井の頭公園や養魚池で一緒に釣りをした同級生のTとこの池で釣りをしようという計画を立てた。

池の近くにある柿の木の実がまだ小さく緑色をしている頃。朝5時にTの家に行き、急いでペダルを漕ぎ、金網の池に向かった。

池に着くとまだ朝もやの残っている感じで、ひっそりとしていた。私が最初に金網を超え、Tが投げ入れた釣り道具を受け取り、Tも続けて金網を超えた。

池の鯉たちはこれから釣られるとは思ってもいないのだろう。キレイな透明な水の上の方を悠々と泳いでいる。

クルクルと竿に巻いた仕掛けを解いて、いざ釣ろうと思ったその時、広い庭の奥から背の高い老人がこちらに向かってゆっくり歩いて来るのに気がついた。

私とTは、それこそ脱兎のごとくとでも言うのだろうか。がむしゃらに金網をよじ登り、一目散に逃げ出した。

「なんだよ。早起きなジジイだな」「寝てりゃいいのにな」などと、うまく行かなかった事をぶつぶつ言いながらせっかく出かけて来たので、そのまま多摩川に向かった。

それから10年ほども経った頃だろうか。新聞に出ていた「実篤公園」の記事を見て、初めてTと逃げ出した金網の池が武者小路実篤さんの家である事を知った。さらに、実篤さんは晩年をこの家で過ごした、とあるので早起きの背の高いジジイは武者小路実篤さん本人だと確信した。

私にも人並みに青春という時期が訪れ、それなりにさまざまな書物を読み漁っていた頃だ。

志賀直哉や有島武郎、亀井勝一郎、小林秀雄、深田久弥、漱石や芥川などを手当たり次第に読んでみた。

もちろん武者小路実篤さんの著作も読んでみたが、「知っている人」という妙な親近感からか本の内容ではなく、こちらに向かって歩いて来る背の高い老人の姿がよりいっそうはっきりと浮かんで来るだけだった。

釣竿を振り回していなければ、決して姿を見ることもできなかったであろう文豪との思い出に残る出会いだった。

この話には後日談があって、それからさらに20年以上も経った頃だろうか。

吉祥寺にある、よく行く喫茶店でマスターから「武者小路実篤さんのお孫さんですよ」と、時々顔を見たことのある常連さんを紹介された。

私は「えっ」と言ったきり固まってしまった。しばらくして落ち着いてから「実は・・・」と、武者小路実篤さんと会った事があるという顛末を話した。

そのお孫さんは、大笑いで聞いていた。そして、店を出るときには、「いやー、今日はいい話を聞けたよ。ありがとう。きっと爺さんはその時笑っていたんだと思いますよ」
と言ってくれた。

時々、実篤公園の近くを通る事がある。その度に思い出す文豪との釣りの出来事だった

2019年9月6日金曜日

【8】ギャラントメンの戦場の恋と多摩川

小学6年生の夏休みも始まったばかりだった。その日の多摩川は少し風が強く、水面に小波が立っていた。私と、一緒に行った友人のRはセルロイドの棒ウキを付けて釣りをしていた。波に揺られてアタリがとりづらかったが、それでもクチボソやヤマベがピクピクとウキを大きく引き込み、ハリに小魚をかけることができた。

当時の多摩川は今のように、黒く大きな鵜を見かけることはもちろん、ブラックバスなど名前すらも聞いたことがない魚だった。そのせいか小魚が多く、クチボソなどは少し撒きエをすると真っ黒な群になってしまうくらい寄ってきた。

風を気にしながら釣っていると、少し離れた土手に、黒いアタッシェケースを持ち濃い色の背広を腕に抱えて持った人が腰を下ろして、こちら見ていることに気が付いた。河原には不釣り合いな革靴を履いている。しばらくするとその革靴の人が近寄ってきて「坊や少し釣らせてくれないかな?」と聞いてきた。びっくりして「はい」と言って釣り竿とエサであるサシとミミズを渡すと、革靴の人はじーっとウキを見つめ、一生懸命釣っている。かなり釣りの心得があるようで、エサ付けから竿振りまで「うまいな」と思わせるほどだった。

革靴の人は私とRに話しかけるでもなく、ただひたすらウキを見つめ小魚を釣っていた。

小一時間も経っただろうか。革靴の人が「ありがとう」と言って竿を返してくれた。そして「よかったらレコードいらないかい?」といって重そうな黒いアタッシェケースを開けた。中にはいろいろなレコードが入っていた。その中で私の目に止まったのが「戦場の恋」というEP盤のレコードだった。その他にもレコードを2~3枚もらい、魚釣りに行ったのにレコードを持って帰ることになった。

私はテレビで放映される戦争ドラマが好きだった。「コンバット」や「頭上の敵機」などを楽しみに見ていた。その中でも、どこか戦争の哀しさをテーマにした「ギャラントメン」に惹かれていた。「戦場の恋」はジャケットがその「ギャラントメン」のオープニングの映像と同じだったので目に止まったのだった。

家に帰ってすぐにレコードプレーヤーに「戦場の恋」を載せてみた。するとそのレコードからは「ギャラントメン」のテーマソングが流れてきた。私はうれしくなり翌日、学校に持っていった。放送部に入っていた私は、放課後の放送当番がくるたびに「戦場の恋」をかけた。下校時間が迫り、生徒がいなくなった校庭に流れる「戦場の恋」はよりいっそう哀しげだった。

それから10年以上の時が経ち、私も世間ではサラリーマンと呼ばれる職業についていた。さまざまな社会経験を積みながら、人並みに苦労もした。

一心不乱にウキを見つめ、小魚を釣っていた革靴の人は、平日だったしスーツ姿だったので、レコード店回りに疲れ多摩川の川面を見に来たのだろう。革靴の人は釣っている間、楽しいというよりどこか哀しそうに釣っていた。水中に引き込まれるウキに、合わせをくれずに見つめていることもあった。

会社員になっても釣りを続けていた私は、仕事に疲れたときに知らず知らずのうちに革靴の人に自分の姿を重ね合わせていた。革靴の人が哀しそうに竿を振っていたときの姿を思い出すこともあった。革靴の人もかつては楽しく釣りをしたことがあっただろう。親しい友人と笑いながら竿を並べたこともあったかもしれない。
 楽しい釣り、哀しい釣り、寂しい釣り、孤独な釣り。釣りに憑かれた釣り人は永遠に竿を振り続けなければならないのだろうか…。

【用語解説】
※アタリ 魚がエサを食べてウキが動くこと
※クチボソやヤマベ どちらも10~15cmぐらいの小魚
※コンバット ビック・モローが軍曹役をしていた人気ドラマ
※頭上の敵機 アメリカ軍の爆撃機B-17をテーマにしたドラマ
※EP盤のレコード 直径が17cmぐらい小型のレコード盤

【7】東大と河口湖

小学生の時分から、釣りに夢中になっていた私は、中学生になっても相変わらず釣り竿を振り回していた。私の通っていた中学校は生徒数も多く、当時A組からH組までの8クラスがあった。当然教師の数も多かった。

教師の中で、とくに生徒達に恐れられていたのがО先生だった。数学を教えていたのだが、噂では東大を出ていて、授業でも怒鳴り声をあげたり、無駄話をしているとチョークが飛んできたりするという話だった。

なにより小柄だが、いつもステッキを持ち、廊下の真ん中をのっしのっしと歩く姿には、ちょっとした不良も黙って道を譲るほどの迫力があった。よくパイプをくわえていたので「ポパイ」とも呼ばれていた。

1年から2年に進級した際にも、幸いに私はО先生が数学を担当するクラスではなかった。О先生と初めて係わりらしきものを持ったのは夏休みに富士五湖方面の林間学校へ行った時のことだった。

数日間のうち1日だけクラスを越えていろいろな遊びを選択できる学習コースがあり、その中に河口湖で釣りができるコースがあった。もちろん私は迷わず河口湖の釣りに参加することに決め、3.9メートルの渓流竿を持って行った。その引率の教師のうちの一人がО</FONT>先生だったのだ。

朝早くから河口湖の湖畔に釣り竿を持って降りて行くと、その水は見たこともないほど透明であった。普段、多摩川の水を見ている私には、綺麗すぎて、釣れるのかどうかが不安になるほどの水色だったのだ。

ところが、水中をよく見ると小魚がたくさん泳いでいて、黒い陰が行ったり来たりするのが目に入ってくる。練り餌やサシを付けると10センチほどの小魚が玉ウキをピクピクと水中に引き込んでいく。釣れたのは多摩川では見たこともない魚だった。背びれがややオレンジがかっている。

物知りの友人が「これはヒガイというんだ」と得意そうに教えてくれた。小魚は次々に釣れてくる。そのころの河口湖にはブラックバスなどはいない。こういった小魚があっけないほど簡単に釣れてきた。

しばらく小魚と遊んでいて、場所を変えてみようと移動すると、そこにО先生の姿を見つけた。О先生は少し離れた藻が生えているところで竿を振っていたのだった。それも段巻きのへら鮒用の竿を、きれいに回し振りしていた。パイプイスに座り、黒と朱の漆塗りのエサ箱を、石突きで止め、竿掛けも段巻きだった。

そのころの私は、へら鮒釣りを始めたばかりで、釣り堀に数回行った程度の経験はあった。それだけにあの恐ろしいО先生がへら鮒釣りをする意外さにびっくりしてしまった。О先生は真剣にエサを打ち続けるが掛かって来るのは同じような小魚ばかりだった・・・。

と、突然、竿がいままでとは違い、大きく曲がった。しばらくして水面に顔を出したのは25センチほどの銀色に輝く、美しい河口湖のへら鮒だった。О先生はへら鮒を無事に玉網に納めると、後ろを見て、廊下を歩く姿からは想像できない満足そうな笑顔を、だまって私たちに向けた。О</FONT>先生の釣果はこの1匹だけだった。

私のへら鮒釣りへのあこがれは、このО先生の河口湖の1枚によって急速にふくらんでいった。段巻きの竿と段巻きの竿掛けを揃えて、О先生と同じようにエサを打つ自分の姿を頭の中に思い描いていた。受験を現実の問題として捉えなければならない時期にさしかかる私にとっては、「東大」を出た先生も夢中になるほどの、難しくておもしろいへら鮒釣りというイメージも頭の中に勝手にできてしまっていた。

中学校を卒業してからも、О先生とは多摩川で時々顔を合わせることがあった。その時には自作のへら鮒用のウキをくれたり、実現はしなかったが「こんど中古の車を買ったから奥多摩湖へ行こう」などと誘ってくれた。

河口湖の美しいへら鮒にあこがれ、大人になってから数回ほどは足を運んでみたが、なかなかへらを釣ることはできなかった。ハタキにあたり、大きなお腹の雌を数匹の雄が追いかけるシーンが舟のすぐ前で展開されるようなチャンスもあったが、その日のへらはまったく口を使わなかった。

私が河口湖のへら鮒をハリに掛けることができたのは、О先生のへら鮒にあこがれてから30年以上もの時が過ぎてからだった。年月を経ても河口湖のへら鮒はО先生の釣ったへらと同じように銀色に輝き美しかった。私には後ろで見ている生徒はいなかったが、同じようにうれしかった。

О先生から数学を習う機会はなかったが、へら鮒釣りを私に教えてくれた恐ろしい先生だった。

【用語解説】
※アタリ 魚がエサを食べてウキが動くこと
※段巻き 竹の上から糸を巻き補強、旗竿のようになっている竿。当時は段巻きといえばへら鮒用の竿だった
※ハタキ へら鮒が産卵をしていること
※へら鮒 フナの種類で50cmを超える大きさになる

【6】多摩川と画描き

私は正月が来るとだいたい元旦には多摩川へ行ってみる。それは1年の釣りがいい年であるように祈願する意味もあるし、多摩川に感謝する意味も含めてだ。私は多摩川で釣りを覚え、多摩川でさまざまな事を学んだ。

なにかの釣りの本で読んだことを真似してカップ酒を多摩川に流す。本来なら釣れた魚に酒を飲ませるらしいが、この時期多摩川で酒が飲めるような大型魚を釣るのはなかなか難しいので川面に酒を流す事にしたのだ。

ある年の正月、多摩川に行ってみると、ちょうど酒を流しに行くポイントの途中にイーゼルを立てて画を描いている老人がいた。老人は自転車できたらしく、大型の荷台の付いた自転車が近くに止められていた。描いているところは、釣りの言葉でいうとワンドになっているようなところで、素人目にも「画」になりそうなポイントだった。私の中では第2ワンドと呼んでいたところだ。

私はほんとうは老人の絵を見たい気もするし、声を掛けて話をしてみたい気もしていたが、なんとなく恥ずかしく、わざと老人との距離ができるようにコースを変えた。酒を流すポイントは、そこからまだ15分くらいは歩かなければならない。

着いた場所はそのころの私がいちばん気に入っていたところで、私が自分で開拓したポイントだ。オデコはほとんどなく2.7mや3.3m、3.9mといった短い竿でも十分に釣りになるポイントだった。当時、高校生だった私にとって、まともな竿はその3本がすべてだった。

今年もまたいい釣りができるようにと祈り、いつもとかわらぬ流れを見ながら持参した酒をゆっくりと流した。私自身は当時酒は飲まなかったが、こういうことをすると、なにやら自分までが浄化されるような気がしてくるのだった。

釣り人は一人もいない。しばらく周辺をぶらぶらしていると、冬にもかかわらずときたま魚の跳ねるのが見えた。ただ、跳ねでできる水の輪もどことなく冬を感じさせる寂しい跳ねだった。

帰り道を駅に向かい、やはり老人が気になるので目をやると彼はまだ画を描いていた。横には少し冷え込んできたので焚き火がおこされていた。少し気が臆したが今回は老人の近くを通る道を選んで帰る事にした。画を見てみたい気もするし、タイミング良く視線が合えば話しかけてみようかなどと考えていた。

老人の近くを通りがかると、彼のほうから「火に当っていきませんか」と声をかけてくれた。イーゼルに立てられた画を見ると、ワンドが実際よりは広く感じるように描かれ、多摩川がなにかを語りかけてくれているような印象を受けた。

描かれているのは冬枯れの多摩川なのに、画の中には春の暖かさを感じた。そのころの私は若かったせいもあり、こうした印象が素直には口から出てこない。

その時には老人に「多摩川はいかがですか?」などと小生意気な言葉が口から出ていた。老人はそんな生意気さなど微塵も気にするふうを見せずに「ありがたいところですなぁ。多摩川は」と言った。

私にとってこの言葉は宝物のようで、いまでも大切にしている。私はそれから何度もこの老人が言った「ありがたいところですなぁ。」といった言葉を反芻し意味を考えてみた。

その度にちがう答えになり、私自身が年を経るにつれ、ますます深みのある言葉として沈澱していく。老人が「火に当っていきませんか」と声をかけてくれたのがけっして偶然ではなく、私の気持ちを老人が察してくれたのだと理解するまでには数十年の年月が必要だった。

老人はそのとき「世界中描きました」という話をしていた。もしかしたら本当の絵描きだったのかもしれないとも思う。この老人の言葉と出会ってから、私は感謝する意味が少しは理解できるようになった。その時の私の言葉の傲慢さを恥じることも知った。私は釣れない釣りにも釣れる釣りにも、いつも感謝できる釣り人でありたいと願う。

老人から離れ、土手の上から振り返ると彼はまだ画に向かっていた。冬の赤味の強い光が斜から彼の背中を照らしていた。遠くから見ると、彼自身がまるで画の中にいるようで、私の目には今でも赤く輝く背中が見えるような気がする。

【用語解説】
※ワンド 小さな入り江のようになっている場所
※オデコ 魚が1匹も釣れないこと

【5】OK食堂のラーメン

釣りを始めたばかりのころから、私には遠くへ行けば行くほど、きっとたくさん釣れるという思いこみのような物があった。見知らぬ場所で竿を振りたいというあこがれも人一倍強かった。

小学6年生のころには多摩川へよく通っていたが、いつもの「京王多摩川」ではなくもっと上流の多摩川へ行ってみたいと思ってた。「京王多摩川」で釣りをしているときに大人の釣り人が京王線の「中河原」で降りて多摩川に行くと、コイやフナがたくさん釣れると聞かされて、すぐにこの次は「中河原」に行ってみようと思ったのだった。

同じクラスのS高雄を誘って「中河原」へ無理矢理に連れていったのはそれからしばらくたってからだ。S高雄の家は世田谷の地主の系統で、比較的小遣いにも不自由しない同級生だった。高雄の名前の通り背は高いが、釣りのウデはいまひとつといったところだ。彼の家には父親が作った、釣った魚を入れるための大きな水槽があり、当時の私にはそれがうらやましくてしかたがなかった。

一番電車に乗り「中河原」へ行ったのは6月だった。朝からジメジメとした雨が降り、私と高雄は満足な雨具もないので電車の橋の下で雨を避けながら釣りをしていた。少し流れがあるので高雄はトウガラシウキ、私は真ブナ釣り用のシモリ仕掛けでエサを何回も打ち返していた。ところが水は濁り流れは速くなり「サシ」「練りエサ」「ミミズ」とエサをを替えてもアタリはまったくなかった。何時間たっても1匹の魚も釣ることができなかった。

数時間もそんな状態が続くと私も高雄もさすがに飽きてきたし、寒さでお腹が空いてきた。「なにか食べに行こう」と「中河原」の駅に食べ物屋を探しにいったのは9時前のことだった。

まだ開いていないラーメン屋の扉を2軒叩いてみたが、なんの反応もなかった。それでもめげない、世間を知らないお腹を空かせた小学6年生は、3軒目のラーメン屋のガラス戸を「すいません」と叩いていた。
 「OK食堂」と看板が掛かっていた店だった。

少し時間があって店主らしき男がステテコ姿のまま「なんんだい」と出てきた。「すいませんラーメンできますか」と聞くと店主は笑いながら「少し時間がかかるけどな」といいながら「ちょっと待ってな」といって奥へ行き着替えて出てきた。店内はまだカウンターに安っぽいビニール貼りの丸いイスが、逆さに積み上がっている状態だった。店主はそのイスを降ろし「ほらここで待ってな」といって2人を座らせた。

雨に濡れた2人を見て店主が「そういうのを水も滴るいい男」っていうんだと、小学生には少し難しいダジャレをいいながら大きな鍋に湯を沸かし始めた。湯が沸くまで店主は「釣れたのか」とか「どこから来たんだ」とか、イスに座ってかしこまっている2人の気持ちを和らげるようにいろいろ話しかけてくれた。

「焼き豚がないからハムを乗せておいたよ」と言いながら、湯気を上げたラーメンが運ばれてくると、S高雄と2人で夢中になって麺を口に運んだ。店主はそんな2人の姿を笑いながら見ていた。帰る時には「焼き豚がなかったから」といって60円だか70円だかのラーメン代を10円づつオマケしてくれた。

最近では雑誌やテレビで、さまざまなラーメン屋の特集を見かける。たいていはどこのラーメン屋がおいしいかといった内容だ。ダシがどうだとか麺はこうだとか解説があり、店主がそれなりのうんちくを語る。たまには私が入ったことのある店が紹介されるときもある。私はそんな特集を見る度に「OK食堂」のラーメンを思い出す。

テレビや雑誌で紹介されているラーメンと比べたら、当時の「OK食堂」のラーメンはほんとに粗末なラーメンだったかもしれない。店の入り口もガラガラと音を立てる、曇りガラスの汚れた引き戸だった。しかし、私の記憶に残ったのはラーメンの味ではなく、「水も滴るいい男」のダジャレと丼から沸く湯気よりも暖かい店主の心だったのだ。



【用語解説】
※アタリ 魚がエサを食べてウキが動くこと
※真ブナ 金ブナや銀ブナのことで、釣り人がへら鮒と区別するために使う呼び名
※シモリ仕掛 フナの釣り方の種類。小さなウキがいくつも付いている

【4】野田奈川と「わかば」

「乗っ込み」の季節になると、もうずいぶん昔の野田奈川での釣りを思い出す。3月に、ある釣り会にゲストで参加、初めて野田奈川に行った時のことだ。

その日は晴れてはいたが、どことなくまだ冬を引きずっているような感じの天気だった。初めての場所なので、下調べをして「オンドマリ」と呼ばれている、いちばん端に釣り座を構えた。

竿は3.3m。グラスロッドの4本継ぎで、持っている他の竿は硬調子だが、この3.3mはやや柔らかめで、当時一番気に入っていた竿だった。他の竿といっても振出しの2.1m、並み継ぎの2.7mと3.9m、4.5m、それに物干竿のような太さの5.1mがあるだけだったので、この3.3mを使う機会は多かった。そのせいか買った時よりさらに柔らかくなり、全体にゴツゴツした感じが取れ、丸味のある調子が気に入っていた。

2メートルほどの水深のポイントだったが、いくらエサを打ってもまったくアタリがない。しばらくすると近くに地元の人らしい釣り人がやってきた。コイを狙っているらしく、大きなエサを付け2本のリール竿を投げ込んだ。その釣り人は、○○農業協同組合とネームが入れられた帽子をかぶり、リール竿の後ろにどっかりと腰をおろした。還暦はとっくに過ぎているだろうと思われる年齢だが、その顔は、彼のたくましい人生を象徴するかのように見事に日焼けしている。

3.3mでまったくアタリがないので、竿を3.9mに替えてみたりしたが、相変わらずアタリはない。コイ釣りも不調のようで、竿先に付けられた鈴がチリリンと音を発するのは、ときたまエサを代えるためにリールを巻く時だけだ。

アタリがない私は退屈するのでタバコの本数が自然に増え、とうとうタバコを切らしてしまった。コイ釣りの老人も手持ちぶさたのようで、時折ゆったりと蒼い煙りをくゆらし、その香りがタバコを切らした私には、たまらなくうらやましく感じた。

老人のタバコが気になり何度か彼の方を見ているうちに「へらはどんなだ?」と話し掛けられた。「1回もアタリがないですよ」と、答えながら野田奈川について聞いてみると、老人はコイ釣りの話しだとことわりながらも、へら鮒の話を織りまぜて野田奈川や周辺の釣り場について詳しく教えてくれた。さらにこれから春になった時の水郷がどんなに魅力的なのか、昔は至る所が釣り場だったことなどを自分の体験を交えて話してくれた。

老人がポケットから「わかば」を取り出し火を付けると、たまらずに私の口から「すいませんタバコを1本いただけませんか」と、いう言葉が出ていた。老人は「なんだタバコを切らしたのか」と、残っていたちょうど半分くらいにあたる5、6本を笑いながら取り出そうとした。私は「いや1本でいいです」と言ったが、老人はまた笑いながら「こういうもんは、無いとよけい吸いたくなるもんだでな」といった。私の手の平には5、6本の、やや濃い目の茶色のフィルターが付いた「わかば」があった。

老人はタバコの煙りを吐き出しながら「今日は東風(こち)だからなぁ。なかなか釣んのはむずかしい」といった。

そしてゆっくり野田奈川を見回しながら満足そうに「もうすぐ乗っ込みだもなー」と私に聞かせると言うより、自分に語りかけるような口調でポツリと言った。

それからの私は春の気配が感じられるころになると、老人の言った「もうすぐ乗っ込みだもなー」という言葉を思い出す。

そして思い出す度に温かい気持ちになる。老人が「もうすぐ乗っ込みだもなー」と言ったのが、釣りだけの事ではなく、春になると芽吹く草花や、田植えの準備のことなども含めた意味だと思うからだ。さらに年齢を経た最近の私には、老人が自分の人生に対しても、また春が巡ってきた喜びを表わしたのだと理解できるようになってきた。

コイ釣りとへら鮒釣りの違いはあるが老人もまた、自然や人生に向かって竿を振る、尊敬すべき釣り人であった。
茶色のフィルターが付いた「わかば」をくゆらせながら、老人はいったいあれから何度「もうすぐ乗っ込みだもなー」と川面に向かってつぶやいたのだろうか。

【用語解説】
※乗っ込み 春になるとフナが産卵のために浅場に出てくること。1年で1番よく釣れる時期
※アタリ 魚がエサを食べてウキが動くこと
※真ブナ 金ブナや銀ブナのことで、釣り人がへら鮒と区別するために使う呼び名
※へら鮒 フナの種類で50cmを超える大きさになる