2019年9月6日金曜日

【1】哀しい清水池公園

東京の目黒区に「清水池公園」という、無料でへら鮒を釣らせてくれる区営の池がある。池といってもそう大きな物ではなく、せいぜい周囲が1キロにも満たない大きさだ。私は中学生のころから「清水池公園」によく釣りにいった。京王線と井の頭線を乗り継ぎ渋谷まで出て、たしか「月光原小学校前」までバスで行ったように記憶している。世田谷区に住んでいた私がなぜ目黒区のこの池の存在を知っているかというと、そのころ私より1学年上の従兄弟が池のすぐ近くに住んでいて、泊まりにいった時などによく釣りをしたからだ。

高校に入ったばかりのころ、学校に当時愛読していた釣りの雑誌を持っていった。休み時間に読んでいると「君も釣りをやるの」と声をかけてきた同級生がいた。M君だった。まだまだ、クラスで友人などができるほど時間が経っていなかったので、私とM君とは釣りを通じてすぐに仲良くなった。ただ、M君は釣りはしなかった、というよりできなかった。M君はなぜかいつも右手に白い手袋をして、腕が動く事はなかった。理由はわからないが腕が不自由なのだった。

M君が清水池公園の近くに住んでいたので、何回もM君と池に釣りに行った。M君は器用に片手で自転車を操って見にきてくれた。そのたびに「エサはもう少し小さい方がいいよ」とか「オカユ練り」の作り方などを教わった。M君から教えてもらった清水池公園の必釣法に、ハリスにポマードを塗るというのがある。これはハリスにポマードを塗り、ウキではなく水面に浮いているハリスのフケ具合を見ながら合わせる釣りで、ほんとに良く釣れた。私が釣れる度にM君は自分が釣った時のように喜んでくれた。そんなM君だが私が「君も釣ってみれば」といくら誘ってもけっして竿を握ることはなかった。ただ彼の釣りの知識は相当なもので、当時私などが足下にも及ばなかったことだけは確かだ。

私がM君の腕について知ったのはほんの偶然からだった。従兄弟が目黒から新百合丘の家に引っ越し泊まりにいった折り、清水池公園の話になり自然にM君の話が出た。M君は従兄弟と同じ中学校で、従兄弟の同級生だった。従兄弟の家が医者だったせいもあり、私はM君の病気について詳しく知ることになった。M君が骨肉腫という病気で、中学3年の時に発病し腕を切断したことを知った。さらに彼の命がそんなに長くないことも知った。

私はその話を胸にしまいこんでだれにも話さないまま、相変わらずM君と遊んでいた。遊んでいる時のM君を見ているとそんな病気のことなど忘れてしまうほどで、一緒に笑い、一緒に喜ぶ清水池公園の釣りが続いた。

夏休みが過ぎてしばらくたったころ、M君が学校に来なくなった。先生の話では入院したので少し休むことになったそうだ。私はM君の入院先にもしばしば遊びに行った。M君と私とは将棋がちょうど同じくらいの強さで、勝ったり負けたリをくり返していた。一度などは将棋に熱中するあまり私のほうが貧血で倒れ、彼のベットに寝かせてもらったこともある。

M君のベットの近くには、英語を勉強するためのカセットデッキと教科書やノートがきちんと置かれてあった。M君は「また勉強が遅れちゃうな」といいながら気にしていた。

ただ、私は病院にいくたびにM君の頭髪が少なくなっていくことや顔色が優れないのを見て、もしかしたら従兄弟の家で聞いた話は本当かもしれないと思うようになっていた。

本格的な冬になる少し前にM君は亡くなった。私には信じられなかった。担任からその話を聞かされた時、クラスのほとんどが泣いた。担任も涙顔だった。しかし、私は泣かなかった。私はクラス全員で出席した葬儀にも行かなかった。私は葬儀の終わった次の日に彼の家に行った。M君は小さな写真になってしまっていた。

翌年もM君の家を訪れると彼の母親が「これを持っていってください」と彼が使っていた釣り道具を渡された。コイ釣りに使うブッコミ用のおもりや多数の釣り用具があった。竿もグラスロッドのコイ竿や数本のへら鮒竿があった。M君がどんなに釣りに熱中していたかが改めて伝わってきた。今でも時々、竿尻の少し上の部分に「M」のネームシールが貼ってある釣り竿を取り出してみる。

清水池公園には今でもウキが浮かんでいる。当時と変わったのは池の西側にあった睡蓮がなくなってしまい、池を囲う柵が作り替えられたことだろうか。清水池公園に浮かんでいるウキを眺めていると、片腕でドロップハンドルの自転車に乗ってくるM君の姿が甦ってくる。私がどんなに「君も釣ってみれば」と誘っても「僕はいいよ。見ているだけで」と少し哀しそうな笑顔で答えたM君の姿が。


【用語解説】
※清水池公園 都心部で珍しく釣りのできる池がある目黒区にある公園
※へら鮒 フナの種類で、この魚を専門に釣るファンも多い

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