2019年9月6日金曜日

【2】貝沼と町長さん

高校1年になった夏休みに初めて遠征釣行を計画した。知り合いが秋田の神代というところにいるので、そこを拠点にして「貝沼」に行こうというのである。「貝沼」を選んだのは、愛読していた釣りの雑誌に、とんでもない大型のフナが釣れると紹介されていたからで、私の中では巨大なフナの棲む「秘境・貝沼」のイメージが大きくふくらんでいくのだった。



神代は田沢湖線沿線にあり、周りを田圃に囲まれた美しいところだった。夜になり空を見上げると、天の河が本当の河のように天空を流れている。隣の岩手県花巻に居た宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」の冒頭で「乳の流れたあとだと云われたりしていた、このぼんやりと白いもの」と表現しているが、たしかに空に牛乳をこぼしたようにも見える。<BR>

 空も明るいが、足下を見ると田圃のあちらこちらで、まるで星の光のように蛍が明滅している。天も地も光に包まれた神代だった。



数日後、一緒に旅行に行ったI 君と2人で、いよいよ「貝沼」へと向かった。同じ秋田県とはいってもかなり距離があり、電車やバスを乗り継いでの釣行だ。途中、大曲だったかで電車をバスに乗り換え、延々と揺られていった記憶がある。どこもかしこも初めて見る風景なので、いよいよ秘境に向かう雰囲気が盛り上がってくる。私の頭の中は、もう見たこともないような巨大鮒を釣ったも同然の状態だった。友人のI は、普段は釣りをやらずフォークギターを弾いているのだが、今回は私が2人分の道具をなんとかそろえ、いきなり巨大鮒に挑戦するのだった。大きな赤い釣り用のバックに、釣り具に混じって旅行用品が入っているのだった。



いよいよ「貝沼」に着き、バス停を降りる。沼に行くにはやや上り坂になった道をしばらく歩く。周りは人家もほとんどなく、森に囲まれていて、いかつい肩の張った巨大鮒がいそうな気配が満点だ。

ところが「貝沼」を眼前にしてびっくりした。まず、想像していたよりはるかに小さく、ほんとうにただの「沼」だった。おまけに鬱蒼としているはずが、日当たりがよく明るい沼だった。とどめは秘境のはずなのに近所の子供達らしい数人が「キャッキャ!」と騒ぎながら泳いでいるではないか。それもちゃんと海水パンツをはいて・・・。



うーん。ほんとうにココは巨大鮒の貝沼なのだろうか...。



しかたがないので、子供達が泳いでいる堰堤側からなるべく離れ、ほんの少しでも秘境らしい雰囲気が漂う、奥まった場所に釣り座を構えた。竿は私が3.9m、友人が3.3mだ。ぽつんと一人で釣っている釣り人がいたので、見に行ってみると「亀有へら鮒釣り研究会」の帽子を被っていた。まだ1匹も釣れていないようだ。



マッシュポテトでエサを作り、釣り始めるとすぐにウキが動いた。と、釣れてきたの15センチほどの小さな真ブナだった。それからもけっこうアタリがあり、同じような小さな真ブナが釣れてくる。魚が釣れてくると、もう秘境の事など忘れてしまい、一生懸命竿を振り釣り続けた。



日が少し傾く頃になると、大きなアブが頻繁に飛んでくるので、道具を片づけ帰ることにした。ところが途中からまるで雲のように固まったアブの大群に追い回され、下り坂を必死に走ってバス停へ向かうことになった。道具を持ちながら顔や手にたかるアブを払うために手をグルグル回しながら走るので、さぞや滑稽な姿だっただろう。



ようやくバス停に着いてみると、また驚かされた。なんとまだ、5時すぎなのに今日のバスはもう無いのである。途方に暮れるというのはこのことだろう。



歩いて着ける距離でもないが、とぼとぼと駅へ向かって行った。不思議に困ったという感覚はなく、いざとなればなんとかなるつもりでいた。友人が竿ケースを持ち、私がバックを背にしながらしばらく歩いていると、後ろから車の近づいてくる音がする。



友人が試しに手をあげてみるとその車はすーっと止まってくれた。事情を話すと、快く車に乗せてくれた。運転手がいて後ろの席に人の良さそうな年輩の人が乗っていた。東京から「貝沼」にへら鮒という大きなフナを釣りにきたというと、驚くというよりあきれた顔をして笑いながら聞いてくれた。へら鮒は釣れたかと聞かれたので、釣れなかったと答えると、また笑って、それはご苦労だったと、遠征してきたことをねぎらってくれた。



そんな話をしているうちに車は小学校に入っていった。年輩の人は車を降り、当たり前のように職員室に入っていった。そして、そこにいた小学校の職員に、ちょこんと後ろにいる私たちを見ながら「この人たちを駅まで送っていってくれ」と指示を出してくれた。その時は私も友人も、ああこの人は校長先生かなにかなのだなと思った。



ところが、車を乗り換えて駅まで行く途中に聞いた話では、私たちが止めた車は、その町の町長の車で、さっきの年輩の人は佐藤東一という町長さんだった。私も友人もその話を聞いてびっくりしてしまった。気軽にへら鮒釣りの話などをしていたが、町長というと高校生だった私たちにはとんでもなく偉い人のように思えたからだ。



旅行から帰ってきて、覚えている範囲で「秋田県稲川町町長 佐藤東一様」とだけ書き、お礼の手紙を添えて、お茶を送ってみた。すると当時の郵便はたいしたもので、しばらくすると「職員一同でありがたく……」と書かれたハガキが送られてきた。<BR>

 私の初めての遠征釣行は巨大鮒は釣れなかったが、人の暖かさに触れた釣行になった。「貝沼」の巨大鮒の代わりに釣れたのは、稲川町町長の優しさだった。



【用語解説】

※アタリ 魚がエサを食べてウキが動くこと

※真ブナ 金ブナや銀ブナのことで、釣り人がへら鮒と区別するために使う呼び名

※へら鮒 フナの種類で50cmを超える大きさになる

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