私は正月が来るとだいたい元旦には多摩川へ行ってみる。それは1年の釣りがいい年であるように祈願する意味もあるし、多摩川に感謝する意味も含めてだ。私は多摩川で釣りを覚え、多摩川でさまざまな事を学んだ。
なにかの釣りの本で読んだことを真似してカップ酒を多摩川に流す。本来なら釣れた魚に酒を飲ませるらしいが、この時期多摩川で酒が飲めるような大型魚を釣るのはなかなか難しいので川面に酒を流す事にしたのだ。
ある年の正月、多摩川に行ってみると、ちょうど酒を流しに行くポイントの途中にイーゼルを立てて画を描いている老人がいた。老人は自転車できたらしく、大型の荷台の付いた自転車が近くに止められていた。描いているところは、釣りの言葉でいうとワンドになっているようなところで、素人目にも「画」になりそうなポイントだった。私の中では第2ワンドと呼んでいたところだ。
私はほんとうは老人の絵を見たい気もするし、声を掛けて話をしてみたい気もしていたが、なんとなく恥ずかしく、わざと老人との距離ができるようにコースを変えた。酒を流すポイントは、そこからまだ15分くらいは歩かなければならない。
着いた場所はそのころの私がいちばん気に入っていたところで、私が自分で開拓したポイントだ。オデコはほとんどなく2.7mや3.3m、3.9mといった短い竿でも十分に釣りになるポイントだった。当時、高校生だった私にとって、まともな竿はその3本がすべてだった。
今年もまたいい釣りができるようにと祈り、いつもとかわらぬ流れを見ながら持参した酒をゆっくりと流した。私自身は当時酒は飲まなかったが、こういうことをすると、なにやら自分までが浄化されるような気がしてくるのだった。
釣り人は一人もいない。しばらく周辺をぶらぶらしていると、冬にもかかわらずときたま魚の跳ねるのが見えた。ただ、跳ねでできる水の輪もどことなく冬を感じさせる寂しい跳ねだった。
帰り道を駅に向かい、やはり老人が気になるので目をやると彼はまだ画を描いていた。横には少し冷え込んできたので焚き火がおこされていた。少し気が臆したが今回は老人の近くを通る道を選んで帰る事にした。画を見てみたい気もするし、タイミング良く視線が合えば話しかけてみようかなどと考えていた。
老人の近くを通りがかると、彼のほうから「火に当っていきませんか」と声をかけてくれた。イーゼルに立てられた画を見ると、ワンドが実際よりは広く感じるように描かれ、多摩川がなにかを語りかけてくれているような印象を受けた。
描かれているのは冬枯れの多摩川なのに、画の中には春の暖かさを感じた。そのころの私は若かったせいもあり、こうした印象が素直には口から出てこない。
その時には老人に「多摩川はいかがですか?」などと小生意気な言葉が口から出ていた。老人はそんな生意気さなど微塵も気にするふうを見せずに「ありがたいところですなぁ。多摩川は」と言った。
私にとってこの言葉は宝物のようで、いまでも大切にしている。私はそれから何度もこの老人が言った「ありがたいところですなぁ。」といった言葉を反芻し意味を考えてみた。
その度にちがう答えになり、私自身が年を経るにつれ、ますます深みのある言葉として沈澱していく。老人が「火に当っていきませんか」と声をかけてくれたのがけっして偶然ではなく、私の気持ちを老人が察してくれたのだと理解するまでには数十年の年月が必要だった。
老人はそのとき「世界中描きました」という話をしていた。もしかしたら本当の絵描きだったのかもしれないとも思う。この老人の言葉と出会ってから、私は感謝する意味が少しは理解できるようになった。その時の私の言葉の傲慢さを恥じることも知った。私は釣れない釣りにも釣れる釣りにも、いつも感謝できる釣り人でありたいと願う。
老人から離れ、土手の上から振り返ると彼はまだ画に向かっていた。冬の赤味の強い光が斜から彼の背中を照らしていた。遠くから見ると、彼自身がまるで画の中にいるようで、私の目には今でも赤く輝く背中が見えるような気がする。
【用語解説】
※ワンド 小さな入り江のようになっている場所
※オデコ 魚が1匹も釣れないこと
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