中学生だったころの私は、それこそ「水癲癇(てんかん)」 ともいう状態だった。
とにかく水がある所ならどこにでも竿を持って行き、 ハリの付いたエサを投げ入れてみた。
近くにある学校の池や病院の池では、警備員さんに追いかけられ、 井の頭公園ではお巡りさんにしつこく説教されているところを「 ガキのやったことじゃねえか。もういいだろ」 とちょっと怖そうな人に助けられたりもした。
玉川上水の近くにあった養魚池の15cmほどの錦鯉を釣り、 紙に学校名と名前を書かされ釣竿を没収されたこともある。
多摩川の近くでは、「秘密の釣り場を見つけた」 と思い込んで大きな水溜りでよろこんで釣っていたら「 ここには魚なんていないよ。掘ったばかりの砂利穴だから」 と言われがっかりした。
そんな中の一つに、忘れられない池がある。
私の住んでいる世田谷から自転車で多摩川に行くには、 どの道を選んでも行きは下り坂、帰りは上り坂になる。 それもかなりの急勾配だ。
行きの下り坂は楽なので、だいたい同じ道を通るのだが、 帰り道はいろいろな道を試してみた。
勾配は緩いがダラダラと長く続く道や、 とてもペダルを漕ぎ続ける事が出来ないような急勾配だが、 坂になっている部分が短いコースがあった。
急勾配の道の一つに、 斜面になっているところを通る細い道があった。
その道沿いの広い家には樹木がたくさん植えられ池があり、 色の付いた鯉や黒い鯉が悠々と泳いでいた。
道沿いに続くフェンスの金網を乗り越えればすぐにその池だ。
井の頭公園や養魚池で一緒に釣りをした同級生のTとこの池で釣り をしようという計画を立てた。
池の近くにある柿の木の実がまだ小さく緑色をしている頃。 朝5時にTの家に行き、急いでペダルを漕ぎ、 金網の池に向かった。
池に着くとまだ朝もやの残っている感じで、ひっそりとしていた。 私が最初に金網を超え、Tが投げ入れた釣り道具を受け取り、 Tも続けて金網を超えた。
池の鯉たちはこれから釣られるとは思ってもいないのだろう。 キレイな透明な水の上の方を悠々と泳いでいる。
クルクルと竿に巻いた仕掛けを解いて、 いざ釣ろうと思ったその時、 広い庭の奥から背の高い老人がこちらに向かってゆっくり歩いて来 るのに気がついた。
私とTは、それこそ脱兎のごとくとでも言うのだろうか。 がむしゃらに金網をよじ登り、一目散に逃げ出した。
「なんだよ。早起きなジジイだな」「寝てりゃいいのにな」 などと、 うまく行かなかった事をぶつぶつ言いながらせっかく出かけて来た ので、そのまま多摩川に向かった。
それから10年ほども経った頃だろうか。新聞に出ていた「 実篤公園」の記事を見て、 初めてTと逃げ出した金網の池が武者小路実篤さんの家である事を 知った。さらに、実篤さんは晩年をこの家で過ごした、 とあるので早起きの背の高いジジイは武者小路実篤さん本人だと確 信した。
私にも人並みに青春という時期が訪れ、 それなりにさまざまな書物を読み漁っていた頃だ。
志賀直哉や有島武郎、亀井勝一郎、小林秀雄、深田久弥、 漱石や芥川などを手当たり次第に読んでみた。
もちろん武者小路実篤さんの著作も読んでみたが、「 知っている人」という妙な親近感からか本の内容ではなく、 こちらに向かって歩いて来る背の高い老人の姿がよりいっそうはっ きりと浮かんで来るだけだった。
釣竿を振り回していなければ、 決して姿を見ることもできなかったであろう文豪との思い出に残る 出会いだった。
この話には後日談があって、 それからさらに20年以上も経った頃だろうか。
吉祥寺にある、よく行く喫茶店でマスターから「 武者小路実篤さんのお孫さんですよ」と、 時々顔を見たことのある常連さんを紹介された。
私は「えっ」と言ったきり固まってしまった。 しばらくして落ち着いてから「実は・・・」と、 武者小路実篤さんと会った事があるという顛末を話した。
そのお孫さんは、大笑いで聞いていた。そして、 店を出るときには、「いやー、今日はいい話を聞けたよ。 ありがとう。きっと爺さんはその時笑っていたんだと思いますよ」
と言ってくれた。
時々、実篤公園の近くを通る事がある。 その度に思い出す文豪との釣りの出来事だった
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