小学生の時分から、釣りに夢中になっていた私は、中学生になっても相変わらず釣り竿を振り回していた。私の通っていた中学校は生徒数も多く、当時A組からH組までの8クラスがあった。当然教師の数も多かった。
教師の中で、とくに生徒達に恐れられていたのがО先生だった。数学を教えていたのだが、噂では東大を出ていて、授業でも怒鳴り声をあげたり、無駄話をしているとチョークが飛んできたりするという話だった。
なにより小柄だが、いつもステッキを持ち、廊下の真ん中をのっしのっしと歩く姿には、ちょっとした不良も黙って道を譲るほどの迫力があった。よくパイプをくわえていたので「ポパイ」とも呼ばれていた。
1年から2年に進級した際にも、幸いに私はО先生が数学を担当するクラスではなかった。О先生と初めて係わりらしきものを持ったのは夏休みに富士五湖方面の林間学校へ行った時のことだった。
数日間のうち1日だけクラスを越えていろいろな遊びを選択できる学習コースがあり、その中に河口湖で釣りができるコースがあった。もちろん私は迷わず河口湖の釣りに参加することに決め、3.9メートルの渓流竿を持って行った。その引率の教師のうちの一人がО</FONT>先生だったのだ。
朝早くから河口湖の湖畔に釣り竿を持って降りて行くと、その水は見たこともないほど透明であった。普段、多摩川の水を見ている私には、綺麗すぎて、釣れるのかどうかが不安になるほどの水色だったのだ。
ところが、水中をよく見ると小魚がたくさん泳いでいて、黒い陰が行ったり来たりするのが目に入ってくる。練り餌やサシを付けると10センチほどの小魚が玉ウキをピクピクと水中に引き込んでいく。釣れたのは多摩川では見たこともない魚だった。背びれがややオレンジがかっている。
物知りの友人が「これはヒガイというんだ」と得意そうに教えてくれた。小魚は次々に釣れてくる。そのころの河口湖にはブラックバスなどはいない。こういった小魚があっけないほど簡単に釣れてきた。
しばらく小魚と遊んでいて、場所を変えてみようと移動すると、そこにО先生の姿を見つけた。О先生は少し離れた藻が生えているところで竿を振っていたのだった。それも段巻きのへら鮒用の竿を、きれいに回し振りしていた。パイプイスに座り、黒と朱の漆塗りのエサ箱を、石突きで止め、竿掛けも段巻きだった。
そのころの私は、へら鮒釣りを始めたばかりで、釣り堀に数回行った程度の経験はあった。それだけにあの恐ろしいО先生がへら鮒釣りをする意外さにびっくりしてしまった。О先生は真剣にエサを打ち続けるが掛かって来るのは同じような小魚ばかりだった・・・。
と、突然、竿がいままでとは違い、大きく曲がった。しばらくして水面に顔を出したのは25センチほどの銀色に輝く、美しい河口湖のへら鮒だった。О先生はへら鮒を無事に玉網に納めると、後ろを見て、廊下を歩く姿からは想像できない満足そうな笑顔を、だまって私たちに向けた。О</FONT>先生の釣果はこの1匹だけだった。
私のへら鮒釣りへのあこがれは、このО先生の河口湖の1枚によって急速にふくらんでいった。段巻きの竿と段巻きの竿掛けを揃えて、О先生と同じようにエサを打つ自分の姿を頭の中に思い描いていた。受験を現実の問題として捉えなければならない時期にさしかかる私にとっては、「東大」を出た先生も夢中になるほどの、難しくておもしろいへら鮒釣りというイメージも頭の中に勝手にできてしまっていた。
中学校を卒業してからも、О先生とは多摩川で時々顔を合わせることがあった。その時には自作のへら鮒用のウキをくれたり、実現はしなかったが「こんど中古の車を買ったから奥多摩湖へ行こう」などと誘ってくれた。
河口湖の美しいへら鮒にあこがれ、大人になってから数回ほどは足を運んでみたが、なかなかへらを釣ることはできなかった。ハタキにあたり、大きなお腹の雌を数匹の雄が追いかけるシーンが舟のすぐ前で展開されるようなチャンスもあったが、その日のへらはまったく口を使わなかった。
私が河口湖のへら鮒をハリに掛けることができたのは、О先生のへら鮒にあこがれてから30年以上もの時が過ぎてからだった。年月を経ても河口湖のへら鮒はО先生の釣ったへらと同じように銀色に輝き美しかった。私には後ろで見ている生徒はいなかったが、同じようにうれしかった。
О先生から数学を習う機会はなかったが、へら鮒釣りを私に教えてくれた恐ろしい先生だった。
【用語解説】
※アタリ 魚がエサを食べてウキが動くこと
※段巻き 竹の上から糸を巻き補強、旗竿のようになっている竿。当時は段巻きといえばへら鮒用の竿だった
※ハタキ へら鮒が産卵をしていること
※へら鮒 フナの種類で50cmを超える大きさになる
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