2019年9月6日金曜日

【4】野田奈川と「わかば」

「乗っ込み」の季節になると、もうずいぶん昔の野田奈川での釣りを思い出す。3月に、ある釣り会にゲストで参加、初めて野田奈川に行った時のことだ。

その日は晴れてはいたが、どことなくまだ冬を引きずっているような感じの天気だった。初めての場所なので、下調べをして「オンドマリ」と呼ばれている、いちばん端に釣り座を構えた。

竿は3.3m。グラスロッドの4本継ぎで、持っている他の竿は硬調子だが、この3.3mはやや柔らかめで、当時一番気に入っていた竿だった。他の竿といっても振出しの2.1m、並み継ぎの2.7mと3.9m、4.5m、それに物干竿のような太さの5.1mがあるだけだったので、この3.3mを使う機会は多かった。そのせいか買った時よりさらに柔らかくなり、全体にゴツゴツした感じが取れ、丸味のある調子が気に入っていた。

2メートルほどの水深のポイントだったが、いくらエサを打ってもまったくアタリがない。しばらくすると近くに地元の人らしい釣り人がやってきた。コイを狙っているらしく、大きなエサを付け2本のリール竿を投げ込んだ。その釣り人は、○○農業協同組合とネームが入れられた帽子をかぶり、リール竿の後ろにどっかりと腰をおろした。還暦はとっくに過ぎているだろうと思われる年齢だが、その顔は、彼のたくましい人生を象徴するかのように見事に日焼けしている。

3.3mでまったくアタリがないので、竿を3.9mに替えてみたりしたが、相変わらずアタリはない。コイ釣りも不調のようで、竿先に付けられた鈴がチリリンと音を発するのは、ときたまエサを代えるためにリールを巻く時だけだ。

アタリがない私は退屈するのでタバコの本数が自然に増え、とうとうタバコを切らしてしまった。コイ釣りの老人も手持ちぶさたのようで、時折ゆったりと蒼い煙りをくゆらし、その香りがタバコを切らした私には、たまらなくうらやましく感じた。

老人のタバコが気になり何度か彼の方を見ているうちに「へらはどんなだ?」と話し掛けられた。「1回もアタリがないですよ」と、答えながら野田奈川について聞いてみると、老人はコイ釣りの話しだとことわりながらも、へら鮒の話を織りまぜて野田奈川や周辺の釣り場について詳しく教えてくれた。さらにこれから春になった時の水郷がどんなに魅力的なのか、昔は至る所が釣り場だったことなどを自分の体験を交えて話してくれた。

老人がポケットから「わかば」を取り出し火を付けると、たまらずに私の口から「すいませんタバコを1本いただけませんか」と、いう言葉が出ていた。老人は「なんだタバコを切らしたのか」と、残っていたちょうど半分くらいにあたる5、6本を笑いながら取り出そうとした。私は「いや1本でいいです」と言ったが、老人はまた笑いながら「こういうもんは、無いとよけい吸いたくなるもんだでな」といった。私の手の平には5、6本の、やや濃い目の茶色のフィルターが付いた「わかば」があった。

老人はタバコの煙りを吐き出しながら「今日は東風(こち)だからなぁ。なかなか釣んのはむずかしい」といった。

そしてゆっくり野田奈川を見回しながら満足そうに「もうすぐ乗っ込みだもなー」と私に聞かせると言うより、自分に語りかけるような口調でポツリと言った。

それからの私は春の気配が感じられるころになると、老人の言った「もうすぐ乗っ込みだもなー」という言葉を思い出す。

そして思い出す度に温かい気持ちになる。老人が「もうすぐ乗っ込みだもなー」と言ったのが、釣りだけの事ではなく、春になると芽吹く草花や、田植えの準備のことなども含めた意味だと思うからだ。さらに年齢を経た最近の私には、老人が自分の人生に対しても、また春が巡ってきた喜びを表わしたのだと理解できるようになってきた。

コイ釣りとへら鮒釣りの違いはあるが老人もまた、自然や人生に向かって竿を振る、尊敬すべき釣り人であった。
茶色のフィルターが付いた「わかば」をくゆらせながら、老人はいったいあれから何度「もうすぐ乗っ込みだもなー」と川面に向かってつぶやいたのだろうか。

【用語解説】
※乗っ込み 春になるとフナが産卵のために浅場に出てくること。1年で1番よく釣れる時期
※アタリ 魚がエサを食べてウキが動くこと
※真ブナ 金ブナや銀ブナのことで、釣り人がへら鮒と区別するために使う呼び名
※へら鮒 フナの種類で50cmを超える大きさになる

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