2019年9月18日水曜日

【9】武者小路実篤さんと釣り

中学生だったころの私は、それこそ「水癲癇(てんかん)」ともいう状態だった。
とにかく水がある所ならどこにでも竿を持って行き、ハリの付いたエサを投げ入れてみた。

近くにある学校の池や病院の池では、警備員さんに追いかけられ、井の頭公園ではお巡りさんにしつこく説教されているところを「ガキのやったことじゃねえか。もういいだろ」とちょっと怖そうな人に助けられたりもした。

玉川上水の近くにあった養魚池の15cmほどの錦鯉を釣り、紙に学校名と名前を書かされ釣竿を没収されたこともある。

多摩川の近くでは、「秘密の釣り場を見つけた」と思い込んで大きな水溜りでよろこんで釣っていたら「ここには魚なんていないよ。掘ったばかりの砂利穴だから」と言われがっかりした。

そんな中の一つに、忘れられない池がある。

私の住んでいる世田谷から自転車で多摩川に行くには、どの道を選んでも行きは下り坂、帰りは上り坂になる。それもかなりの急勾配だ。

行きの下り坂は楽なので、だいたい同じ道を通るのだが、帰り道はいろいろな道を試してみた。

勾配は緩いがダラダラと長く続く道や、とてもペダルを漕ぎ続ける事が出来ないような急勾配だが、坂になっている部分が短いコースがあった。

急勾配の道の一つに、斜面になっているところを通る細い道があった。
その道沿いの広い家には樹木がたくさん植えられ池があり、色の付いた鯉や黒い鯉が悠々と泳いでいた。

道沿いに続くフェンスの金網を乗り越えればすぐにその池だ。

井の頭公園や養魚池で一緒に釣りをした同級生のTとこの池で釣りをしようという計画を立てた。

池の近くにある柿の木の実がまだ小さく緑色をしている頃。朝5時にTの家に行き、急いでペダルを漕ぎ、金網の池に向かった。

池に着くとまだ朝もやの残っている感じで、ひっそりとしていた。私が最初に金網を超え、Tが投げ入れた釣り道具を受け取り、Tも続けて金網を超えた。

池の鯉たちはこれから釣られるとは思ってもいないのだろう。キレイな透明な水の上の方を悠々と泳いでいる。

クルクルと竿に巻いた仕掛けを解いて、いざ釣ろうと思ったその時、広い庭の奥から背の高い老人がこちらに向かってゆっくり歩いて来るのに気がついた。

私とTは、それこそ脱兎のごとくとでも言うのだろうか。がむしゃらに金網をよじ登り、一目散に逃げ出した。

「なんだよ。早起きなジジイだな」「寝てりゃいいのにな」などと、うまく行かなかった事をぶつぶつ言いながらせっかく出かけて来たので、そのまま多摩川に向かった。

それから10年ほども経った頃だろうか。新聞に出ていた「実篤公園」の記事を見て、初めてTと逃げ出した金網の池が武者小路実篤さんの家である事を知った。さらに、実篤さんは晩年をこの家で過ごした、とあるので早起きの背の高いジジイは武者小路実篤さん本人だと確信した。

私にも人並みに青春という時期が訪れ、それなりにさまざまな書物を読み漁っていた頃だ。

志賀直哉や有島武郎、亀井勝一郎、小林秀雄、深田久弥、漱石や芥川などを手当たり次第に読んでみた。

もちろん武者小路実篤さんの著作も読んでみたが、「知っている人」という妙な親近感からか本の内容ではなく、こちらに向かって歩いて来る背の高い老人の姿がよりいっそうはっきりと浮かんで来るだけだった。

釣竿を振り回していなければ、決して姿を見ることもできなかったであろう文豪との思い出に残る出会いだった。

この話には後日談があって、それからさらに20年以上も経った頃だろうか。

吉祥寺にある、よく行く喫茶店でマスターから「武者小路実篤さんのお孫さんですよ」と、時々顔を見たことのある常連さんを紹介された。

私は「えっ」と言ったきり固まってしまった。しばらくして落ち着いてから「実は・・・」と、武者小路実篤さんと会った事があるという顛末を話した。

そのお孫さんは、大笑いで聞いていた。そして、店を出るときには、「いやー、今日はいい話を聞けたよ。ありがとう。きっと爺さんはその時笑っていたんだと思いますよ」
と言ってくれた。

時々、実篤公園の近くを通る事がある。その度に思い出す文豪との釣りの出来事だった

2019年9月6日金曜日

【8】ギャラントメンの戦場の恋と多摩川

小学6年生の夏休みも始まったばかりだった。その日の多摩川は少し風が強く、水面に小波が立っていた。私と、一緒に行った友人のRはセルロイドの棒ウキを付けて釣りをしていた。波に揺られてアタリがとりづらかったが、それでもクチボソやヤマベがピクピクとウキを大きく引き込み、ハリに小魚をかけることができた。

当時の多摩川は今のように、黒く大きな鵜を見かけることはもちろん、ブラックバスなど名前すらも聞いたことがない魚だった。そのせいか小魚が多く、クチボソなどは少し撒きエをすると真っ黒な群になってしまうくらい寄ってきた。

風を気にしながら釣っていると、少し離れた土手に、黒いアタッシェケースを持ち濃い色の背広を腕に抱えて持った人が腰を下ろして、こちら見ていることに気が付いた。河原には不釣り合いな革靴を履いている。しばらくするとその革靴の人が近寄ってきて「坊や少し釣らせてくれないかな?」と聞いてきた。びっくりして「はい」と言って釣り竿とエサであるサシとミミズを渡すと、革靴の人はじーっとウキを見つめ、一生懸命釣っている。かなり釣りの心得があるようで、エサ付けから竿振りまで「うまいな」と思わせるほどだった。

革靴の人は私とRに話しかけるでもなく、ただひたすらウキを見つめ小魚を釣っていた。

小一時間も経っただろうか。革靴の人が「ありがとう」と言って竿を返してくれた。そして「よかったらレコードいらないかい?」といって重そうな黒いアタッシェケースを開けた。中にはいろいろなレコードが入っていた。その中で私の目に止まったのが「戦場の恋」というEP盤のレコードだった。その他にもレコードを2~3枚もらい、魚釣りに行ったのにレコードを持って帰ることになった。

私はテレビで放映される戦争ドラマが好きだった。「コンバット」や「頭上の敵機」などを楽しみに見ていた。その中でも、どこか戦争の哀しさをテーマにした「ギャラントメン」に惹かれていた。「戦場の恋」はジャケットがその「ギャラントメン」のオープニングの映像と同じだったので目に止まったのだった。

家に帰ってすぐにレコードプレーヤーに「戦場の恋」を載せてみた。するとそのレコードからは「ギャラントメン」のテーマソングが流れてきた。私はうれしくなり翌日、学校に持っていった。放送部に入っていた私は、放課後の放送当番がくるたびに「戦場の恋」をかけた。下校時間が迫り、生徒がいなくなった校庭に流れる「戦場の恋」はよりいっそう哀しげだった。

それから10年以上の時が経ち、私も世間ではサラリーマンと呼ばれる職業についていた。さまざまな社会経験を積みながら、人並みに苦労もした。

一心不乱にウキを見つめ、小魚を釣っていた革靴の人は、平日だったしスーツ姿だったので、レコード店回りに疲れ多摩川の川面を見に来たのだろう。革靴の人は釣っている間、楽しいというよりどこか哀しそうに釣っていた。水中に引き込まれるウキに、合わせをくれずに見つめていることもあった。

会社員になっても釣りを続けていた私は、仕事に疲れたときに知らず知らずのうちに革靴の人に自分の姿を重ね合わせていた。革靴の人が哀しそうに竿を振っていたときの姿を思い出すこともあった。革靴の人もかつては楽しく釣りをしたことがあっただろう。親しい友人と笑いながら竿を並べたこともあったかもしれない。
 楽しい釣り、哀しい釣り、寂しい釣り、孤独な釣り。釣りに憑かれた釣り人は永遠に竿を振り続けなければならないのだろうか…。

【用語解説】
※アタリ 魚がエサを食べてウキが動くこと
※クチボソやヤマベ どちらも10~15cmぐらいの小魚
※コンバット ビック・モローが軍曹役をしていた人気ドラマ
※頭上の敵機 アメリカ軍の爆撃機B-17をテーマにしたドラマ
※EP盤のレコード 直径が17cmぐらい小型のレコード盤

【7】東大と河口湖

小学生の時分から、釣りに夢中になっていた私は、中学生になっても相変わらず釣り竿を振り回していた。私の通っていた中学校は生徒数も多く、当時A組からH組までの8クラスがあった。当然教師の数も多かった。

教師の中で、とくに生徒達に恐れられていたのがО先生だった。数学を教えていたのだが、噂では東大を出ていて、授業でも怒鳴り声をあげたり、無駄話をしているとチョークが飛んできたりするという話だった。

なにより小柄だが、いつもステッキを持ち、廊下の真ん中をのっしのっしと歩く姿には、ちょっとした不良も黙って道を譲るほどの迫力があった。よくパイプをくわえていたので「ポパイ」とも呼ばれていた。

1年から2年に進級した際にも、幸いに私はО先生が数学を担当するクラスではなかった。О先生と初めて係わりらしきものを持ったのは夏休みに富士五湖方面の林間学校へ行った時のことだった。

数日間のうち1日だけクラスを越えていろいろな遊びを選択できる学習コースがあり、その中に河口湖で釣りができるコースがあった。もちろん私は迷わず河口湖の釣りに参加することに決め、3.9メートルの渓流竿を持って行った。その引率の教師のうちの一人がО</FONT>先生だったのだ。

朝早くから河口湖の湖畔に釣り竿を持って降りて行くと、その水は見たこともないほど透明であった。普段、多摩川の水を見ている私には、綺麗すぎて、釣れるのかどうかが不安になるほどの水色だったのだ。

ところが、水中をよく見ると小魚がたくさん泳いでいて、黒い陰が行ったり来たりするのが目に入ってくる。練り餌やサシを付けると10センチほどの小魚が玉ウキをピクピクと水中に引き込んでいく。釣れたのは多摩川では見たこともない魚だった。背びれがややオレンジがかっている。

物知りの友人が「これはヒガイというんだ」と得意そうに教えてくれた。小魚は次々に釣れてくる。そのころの河口湖にはブラックバスなどはいない。こういった小魚があっけないほど簡単に釣れてきた。

しばらく小魚と遊んでいて、場所を変えてみようと移動すると、そこにО先生の姿を見つけた。О先生は少し離れた藻が生えているところで竿を振っていたのだった。それも段巻きのへら鮒用の竿を、きれいに回し振りしていた。パイプイスに座り、黒と朱の漆塗りのエサ箱を、石突きで止め、竿掛けも段巻きだった。

そのころの私は、へら鮒釣りを始めたばかりで、釣り堀に数回行った程度の経験はあった。それだけにあの恐ろしいО先生がへら鮒釣りをする意外さにびっくりしてしまった。О先生は真剣にエサを打ち続けるが掛かって来るのは同じような小魚ばかりだった・・・。

と、突然、竿がいままでとは違い、大きく曲がった。しばらくして水面に顔を出したのは25センチほどの銀色に輝く、美しい河口湖のへら鮒だった。О先生はへら鮒を無事に玉網に納めると、後ろを見て、廊下を歩く姿からは想像できない満足そうな笑顔を、だまって私たちに向けた。О</FONT>先生の釣果はこの1匹だけだった。

私のへら鮒釣りへのあこがれは、このО先生の河口湖の1枚によって急速にふくらんでいった。段巻きの竿と段巻きの竿掛けを揃えて、О先生と同じようにエサを打つ自分の姿を頭の中に思い描いていた。受験を現実の問題として捉えなければならない時期にさしかかる私にとっては、「東大」を出た先生も夢中になるほどの、難しくておもしろいへら鮒釣りというイメージも頭の中に勝手にできてしまっていた。

中学校を卒業してからも、О先生とは多摩川で時々顔を合わせることがあった。その時には自作のへら鮒用のウキをくれたり、実現はしなかったが「こんど中古の車を買ったから奥多摩湖へ行こう」などと誘ってくれた。

河口湖の美しいへら鮒にあこがれ、大人になってから数回ほどは足を運んでみたが、なかなかへらを釣ることはできなかった。ハタキにあたり、大きなお腹の雌を数匹の雄が追いかけるシーンが舟のすぐ前で展開されるようなチャンスもあったが、その日のへらはまったく口を使わなかった。

私が河口湖のへら鮒をハリに掛けることができたのは、О先生のへら鮒にあこがれてから30年以上もの時が過ぎてからだった。年月を経ても河口湖のへら鮒はО先生の釣ったへらと同じように銀色に輝き美しかった。私には後ろで見ている生徒はいなかったが、同じようにうれしかった。

О先生から数学を習う機会はなかったが、へら鮒釣りを私に教えてくれた恐ろしい先生だった。

【用語解説】
※アタリ 魚がエサを食べてウキが動くこと
※段巻き 竹の上から糸を巻き補強、旗竿のようになっている竿。当時は段巻きといえばへら鮒用の竿だった
※ハタキ へら鮒が産卵をしていること
※へら鮒 フナの種類で50cmを超える大きさになる

【6】多摩川と画描き

私は正月が来るとだいたい元旦には多摩川へ行ってみる。それは1年の釣りがいい年であるように祈願する意味もあるし、多摩川に感謝する意味も含めてだ。私は多摩川で釣りを覚え、多摩川でさまざまな事を学んだ。

なにかの釣りの本で読んだことを真似してカップ酒を多摩川に流す。本来なら釣れた魚に酒を飲ませるらしいが、この時期多摩川で酒が飲めるような大型魚を釣るのはなかなか難しいので川面に酒を流す事にしたのだ。

ある年の正月、多摩川に行ってみると、ちょうど酒を流しに行くポイントの途中にイーゼルを立てて画を描いている老人がいた。老人は自転車できたらしく、大型の荷台の付いた自転車が近くに止められていた。描いているところは、釣りの言葉でいうとワンドになっているようなところで、素人目にも「画」になりそうなポイントだった。私の中では第2ワンドと呼んでいたところだ。

私はほんとうは老人の絵を見たい気もするし、声を掛けて話をしてみたい気もしていたが、なんとなく恥ずかしく、わざと老人との距離ができるようにコースを変えた。酒を流すポイントは、そこからまだ15分くらいは歩かなければならない。

着いた場所はそのころの私がいちばん気に入っていたところで、私が自分で開拓したポイントだ。オデコはほとんどなく2.7mや3.3m、3.9mといった短い竿でも十分に釣りになるポイントだった。当時、高校生だった私にとって、まともな竿はその3本がすべてだった。

今年もまたいい釣りができるようにと祈り、いつもとかわらぬ流れを見ながら持参した酒をゆっくりと流した。私自身は当時酒は飲まなかったが、こういうことをすると、なにやら自分までが浄化されるような気がしてくるのだった。

釣り人は一人もいない。しばらく周辺をぶらぶらしていると、冬にもかかわらずときたま魚の跳ねるのが見えた。ただ、跳ねでできる水の輪もどことなく冬を感じさせる寂しい跳ねだった。

帰り道を駅に向かい、やはり老人が気になるので目をやると彼はまだ画を描いていた。横には少し冷え込んできたので焚き火がおこされていた。少し気が臆したが今回は老人の近くを通る道を選んで帰る事にした。画を見てみたい気もするし、タイミング良く視線が合えば話しかけてみようかなどと考えていた。

老人の近くを通りがかると、彼のほうから「火に当っていきませんか」と声をかけてくれた。イーゼルに立てられた画を見ると、ワンドが実際よりは広く感じるように描かれ、多摩川がなにかを語りかけてくれているような印象を受けた。

描かれているのは冬枯れの多摩川なのに、画の中には春の暖かさを感じた。そのころの私は若かったせいもあり、こうした印象が素直には口から出てこない。

その時には老人に「多摩川はいかがですか?」などと小生意気な言葉が口から出ていた。老人はそんな生意気さなど微塵も気にするふうを見せずに「ありがたいところですなぁ。多摩川は」と言った。

私にとってこの言葉は宝物のようで、いまでも大切にしている。私はそれから何度もこの老人が言った「ありがたいところですなぁ。」といった言葉を反芻し意味を考えてみた。

その度にちがう答えになり、私自身が年を経るにつれ、ますます深みのある言葉として沈澱していく。老人が「火に当っていきませんか」と声をかけてくれたのがけっして偶然ではなく、私の気持ちを老人が察してくれたのだと理解するまでには数十年の年月が必要だった。

老人はそのとき「世界中描きました」という話をしていた。もしかしたら本当の絵描きだったのかもしれないとも思う。この老人の言葉と出会ってから、私は感謝する意味が少しは理解できるようになった。その時の私の言葉の傲慢さを恥じることも知った。私は釣れない釣りにも釣れる釣りにも、いつも感謝できる釣り人でありたいと願う。

老人から離れ、土手の上から振り返ると彼はまだ画に向かっていた。冬の赤味の強い光が斜から彼の背中を照らしていた。遠くから見ると、彼自身がまるで画の中にいるようで、私の目には今でも赤く輝く背中が見えるような気がする。

【用語解説】
※ワンド 小さな入り江のようになっている場所
※オデコ 魚が1匹も釣れないこと

【5】OK食堂のラーメン

釣りを始めたばかりのころから、私には遠くへ行けば行くほど、きっとたくさん釣れるという思いこみのような物があった。見知らぬ場所で竿を振りたいというあこがれも人一倍強かった。

小学6年生のころには多摩川へよく通っていたが、いつもの「京王多摩川」ではなくもっと上流の多摩川へ行ってみたいと思ってた。「京王多摩川」で釣りをしているときに大人の釣り人が京王線の「中河原」で降りて多摩川に行くと、コイやフナがたくさん釣れると聞かされて、すぐにこの次は「中河原」に行ってみようと思ったのだった。

同じクラスのS高雄を誘って「中河原」へ無理矢理に連れていったのはそれからしばらくたってからだ。S高雄の家は世田谷の地主の系統で、比較的小遣いにも不自由しない同級生だった。高雄の名前の通り背は高いが、釣りのウデはいまひとつといったところだ。彼の家には父親が作った、釣った魚を入れるための大きな水槽があり、当時の私にはそれがうらやましくてしかたがなかった。

一番電車に乗り「中河原」へ行ったのは6月だった。朝からジメジメとした雨が降り、私と高雄は満足な雨具もないので電車の橋の下で雨を避けながら釣りをしていた。少し流れがあるので高雄はトウガラシウキ、私は真ブナ釣り用のシモリ仕掛けでエサを何回も打ち返していた。ところが水は濁り流れは速くなり「サシ」「練りエサ」「ミミズ」とエサをを替えてもアタリはまったくなかった。何時間たっても1匹の魚も釣ることができなかった。

数時間もそんな状態が続くと私も高雄もさすがに飽きてきたし、寒さでお腹が空いてきた。「なにか食べに行こう」と「中河原」の駅に食べ物屋を探しにいったのは9時前のことだった。

まだ開いていないラーメン屋の扉を2軒叩いてみたが、なんの反応もなかった。それでもめげない、世間を知らないお腹を空かせた小学6年生は、3軒目のラーメン屋のガラス戸を「すいません」と叩いていた。
 「OK食堂」と看板が掛かっていた店だった。

少し時間があって店主らしき男がステテコ姿のまま「なんんだい」と出てきた。「すいませんラーメンできますか」と聞くと店主は笑いながら「少し時間がかかるけどな」といいながら「ちょっと待ってな」といって奥へ行き着替えて出てきた。店内はまだカウンターに安っぽいビニール貼りの丸いイスが、逆さに積み上がっている状態だった。店主はそのイスを降ろし「ほらここで待ってな」といって2人を座らせた。

雨に濡れた2人を見て店主が「そういうのを水も滴るいい男」っていうんだと、小学生には少し難しいダジャレをいいながら大きな鍋に湯を沸かし始めた。湯が沸くまで店主は「釣れたのか」とか「どこから来たんだ」とか、イスに座ってかしこまっている2人の気持ちを和らげるようにいろいろ話しかけてくれた。

「焼き豚がないからハムを乗せておいたよ」と言いながら、湯気を上げたラーメンが運ばれてくると、S高雄と2人で夢中になって麺を口に運んだ。店主はそんな2人の姿を笑いながら見ていた。帰る時には「焼き豚がなかったから」といって60円だか70円だかのラーメン代を10円づつオマケしてくれた。

最近では雑誌やテレビで、さまざまなラーメン屋の特集を見かける。たいていはどこのラーメン屋がおいしいかといった内容だ。ダシがどうだとか麺はこうだとか解説があり、店主がそれなりのうんちくを語る。たまには私が入ったことのある店が紹介されるときもある。私はそんな特集を見る度に「OK食堂」のラーメンを思い出す。

テレビや雑誌で紹介されているラーメンと比べたら、当時の「OK食堂」のラーメンはほんとに粗末なラーメンだったかもしれない。店の入り口もガラガラと音を立てる、曇りガラスの汚れた引き戸だった。しかし、私の記憶に残ったのはラーメンの味ではなく、「水も滴るいい男」のダジャレと丼から沸く湯気よりも暖かい店主の心だったのだ。



【用語解説】
※アタリ 魚がエサを食べてウキが動くこと
※真ブナ 金ブナや銀ブナのことで、釣り人がへら鮒と区別するために使う呼び名
※シモリ仕掛 フナの釣り方の種類。小さなウキがいくつも付いている

【4】野田奈川と「わかば」

「乗っ込み」の季節になると、もうずいぶん昔の野田奈川での釣りを思い出す。3月に、ある釣り会にゲストで参加、初めて野田奈川に行った時のことだ。

その日は晴れてはいたが、どことなくまだ冬を引きずっているような感じの天気だった。初めての場所なので、下調べをして「オンドマリ」と呼ばれている、いちばん端に釣り座を構えた。

竿は3.3m。グラスロッドの4本継ぎで、持っている他の竿は硬調子だが、この3.3mはやや柔らかめで、当時一番気に入っていた竿だった。他の竿といっても振出しの2.1m、並み継ぎの2.7mと3.9m、4.5m、それに物干竿のような太さの5.1mがあるだけだったので、この3.3mを使う機会は多かった。そのせいか買った時よりさらに柔らかくなり、全体にゴツゴツした感じが取れ、丸味のある調子が気に入っていた。

2メートルほどの水深のポイントだったが、いくらエサを打ってもまったくアタリがない。しばらくすると近くに地元の人らしい釣り人がやってきた。コイを狙っているらしく、大きなエサを付け2本のリール竿を投げ込んだ。その釣り人は、○○農業協同組合とネームが入れられた帽子をかぶり、リール竿の後ろにどっかりと腰をおろした。還暦はとっくに過ぎているだろうと思われる年齢だが、その顔は、彼のたくましい人生を象徴するかのように見事に日焼けしている。

3.3mでまったくアタリがないので、竿を3.9mに替えてみたりしたが、相変わらずアタリはない。コイ釣りも不調のようで、竿先に付けられた鈴がチリリンと音を発するのは、ときたまエサを代えるためにリールを巻く時だけだ。

アタリがない私は退屈するのでタバコの本数が自然に増え、とうとうタバコを切らしてしまった。コイ釣りの老人も手持ちぶさたのようで、時折ゆったりと蒼い煙りをくゆらし、その香りがタバコを切らした私には、たまらなくうらやましく感じた。

老人のタバコが気になり何度か彼の方を見ているうちに「へらはどんなだ?」と話し掛けられた。「1回もアタリがないですよ」と、答えながら野田奈川について聞いてみると、老人はコイ釣りの話しだとことわりながらも、へら鮒の話を織りまぜて野田奈川や周辺の釣り場について詳しく教えてくれた。さらにこれから春になった時の水郷がどんなに魅力的なのか、昔は至る所が釣り場だったことなどを自分の体験を交えて話してくれた。

老人がポケットから「わかば」を取り出し火を付けると、たまらずに私の口から「すいませんタバコを1本いただけませんか」と、いう言葉が出ていた。老人は「なんだタバコを切らしたのか」と、残っていたちょうど半分くらいにあたる5、6本を笑いながら取り出そうとした。私は「いや1本でいいです」と言ったが、老人はまた笑いながら「こういうもんは、無いとよけい吸いたくなるもんだでな」といった。私の手の平には5、6本の、やや濃い目の茶色のフィルターが付いた「わかば」があった。

老人はタバコの煙りを吐き出しながら「今日は東風(こち)だからなぁ。なかなか釣んのはむずかしい」といった。

そしてゆっくり野田奈川を見回しながら満足そうに「もうすぐ乗っ込みだもなー」と私に聞かせると言うより、自分に語りかけるような口調でポツリと言った。

それからの私は春の気配が感じられるころになると、老人の言った「もうすぐ乗っ込みだもなー」という言葉を思い出す。

そして思い出す度に温かい気持ちになる。老人が「もうすぐ乗っ込みだもなー」と言ったのが、釣りだけの事ではなく、春になると芽吹く草花や、田植えの準備のことなども含めた意味だと思うからだ。さらに年齢を経た最近の私には、老人が自分の人生に対しても、また春が巡ってきた喜びを表わしたのだと理解できるようになってきた。

コイ釣りとへら鮒釣りの違いはあるが老人もまた、自然や人生に向かって竿を振る、尊敬すべき釣り人であった。
茶色のフィルターが付いた「わかば」をくゆらせながら、老人はいったいあれから何度「もうすぐ乗っ込みだもなー」と川面に向かってつぶやいたのだろうか。

【用語解説】
※乗っ込み 春になるとフナが産卵のために浅場に出てくること。1年で1番よく釣れる時期
※アタリ 魚がエサを食べてウキが動くこと
※真ブナ 金ブナや銀ブナのことで、釣り人がへら鮒と区別するために使う呼び名
※へら鮒 フナの種類で50cmを超える大きさになる

【3】麦わら帽子のお婆さん

GWも過ぎた5月の中旬、私はいつものように多摩川に釣りにいった。中学3年だった私には、自転車で行ける範囲の多摩川や釣り堀が主な釣り場だった。いつの日か当時真剣に愛読していた釣りの雑誌によく紹介されている、横利根川や霞ヶ浦、相模湖などに行くことを夢見ていた。

その日の多摩川はよく晴れ、風もなく絶好の釣り日和だった。私は一升瓶を運ぶための木の箱に足を付けた自製の釣り用の台をなるべく前に出し、釣りを始めた。竿は自慢の最新式のグラスロッドの3.9mだ。

水深は1.5メートルほどしかないがよくウキが動き、へら鮒に混じって真ブナやコイが次々にハリに掛かってきた。

しばらく釣りをしていると、近くに麦わら帽子をかぶりモンペをはいたお婆さんが腰を下ろし釣りを始めた。50歳や60歳はとっくに過ぎているだろうと思われる日焼けした婆さんだ。相変わらず私のハリにはよく魚が掛かってくる。

それを見ている婆さんはさかんに私のことを「ぼうやはうまいなぁ」「ぼうやは本当にうまいなぁ」と、釣れる度にほめてくれる。そして「わしもこの前あそこでこんなでっけえコイを釣った」と、手ぶりを交え嬉しそうに自分のことを話してくれた。

昼ごろになると入漁料を集めに年輩の徴集人が来た。どうやら婆さんとは顔なじみのようだ。
「なんだ、お婆また来とるのか」
「どうだ今日は・・・」
「まだ釣れねえが、あのぼうやはうまいぞ」
「もういっぱい釣ってるぞ」
 と、私のことを嬉しそうにほめてくれた。
「わしは今日は金を払うぞ。」
「いいや この前もらったからいいよ・・・」
「いや、わしは払う!」
 と、言いいながら婆さんは小銭を出して徴集人に渡していた。

午後になっても私は釣れ続いた。しかし婆さんには1匹の魚も掛からない。ときたま婆さんの付けた大きなミミズを口一杯にほおばったクチボソが掛かるだけだ。婆さんはそれでも嬉しそうに釣りを続け、私が釣れる度に「ぼうやはうまい」と笑顔でほめてくれる。

そんな婆さんの笑顔を見ているうちに私はなんだか、だんだん悲しくなってきた。理由はわからないが、自分の釣りがひどく寂しい釣りに思えてきたのだ。

その頃の私はある意味では天狗になっていたのかもしれない。ゲスト参加だが70人ほどの大人たちの会で優勝し、大きなカップをもらったりもした。釣り具も竿はグラスだったが並継ぎの高級竿を使っていた。玉網は段巻の竹製でお年玉のほとんどを注ぎ込んで今年買ったばかりだった。ウキは千円を超える羽根ウキ。釣り用のバックは数万円もする赤いバックだった。

ところが、お婆さんの使っている釣り竿は200円くらいで買える安い竹竿。ウキも10円か15円程のセルロイドウキだ。それを見ているうちに、私は自分の持っている道具を自慢どころか、とても恥ずかしく感じた。私は、自分の買える範囲だが値段の高い釣り具を揃えるのに、一生懸命だったのだ。

私は祈った・・・
「お婆さんに釣れますように」
「お婆さんに早く釣れますように」
 もうなんだか泣きたいような気持ちで、祈った。

するとしばらくして婆さんに25センチくらいの真ブナがかかった。私は、玉網を持って婆さんのところにすっ飛んで行き真ブナをすくった。婆さんはたった1匹の真ブナだが、嬉しそうに引き具合を語ってくれた。そして、その魚を私にくれると言う。もちろん私も帰りにはフラシから放してしまうのだが、ありがたく魚をいただきフラシに入れた。

私の釣りはこの婆さんのお陰で、道具自慢や釣果自慢に向かわずにすんだ。たった一人で麦わら帽子をかぶり「ポチャン」と無心に竿を振る婆さん。その後、私もほんの一時期だけ釣りの会に所属したことがある。しかし、そこには私の釣りとは違う世界の釣りがあるだけだった。
私が婆さんのような笑顔で釣りをできるようになるのは、いつのことだろうか。<BR>

【用語解説】
※アタリ 魚がエサを食べてウキが動くこと
※羽根ウキ クジャクの羽根でできたへら鮒釣り用の高級なウキ
※フラシ 釣った魚を入れるための網。ビクともいう
※玉網 釣れた魚をすくうための網。竹製は高級品
※クチボソ イシモロコという10cmぐらいの小魚
※真ブナ 金ブナや銀ブナのことで、釣り人がへら鮒と区別するために使う呼び名
※へら鮒 フナの種類で50cmを超える大きさになる

【2】貝沼と町長さん

高校1年になった夏休みに初めて遠征釣行を計画した。知り合いが秋田の神代というところにいるので、そこを拠点にして「貝沼」に行こうというのである。「貝沼」を選んだのは、愛読していた釣りの雑誌に、とんでもない大型のフナが釣れると紹介されていたからで、私の中では巨大なフナの棲む「秘境・貝沼」のイメージが大きくふくらんでいくのだった。



神代は田沢湖線沿線にあり、周りを田圃に囲まれた美しいところだった。夜になり空を見上げると、天の河が本当の河のように天空を流れている。隣の岩手県花巻に居た宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」の冒頭で「乳の流れたあとだと云われたりしていた、このぼんやりと白いもの」と表現しているが、たしかに空に牛乳をこぼしたようにも見える。<BR>

 空も明るいが、足下を見ると田圃のあちらこちらで、まるで星の光のように蛍が明滅している。天も地も光に包まれた神代だった。



数日後、一緒に旅行に行ったI 君と2人で、いよいよ「貝沼」へと向かった。同じ秋田県とはいってもかなり距離があり、電車やバスを乗り継いでの釣行だ。途中、大曲だったかで電車をバスに乗り換え、延々と揺られていった記憶がある。どこもかしこも初めて見る風景なので、いよいよ秘境に向かう雰囲気が盛り上がってくる。私の頭の中は、もう見たこともないような巨大鮒を釣ったも同然の状態だった。友人のI は、普段は釣りをやらずフォークギターを弾いているのだが、今回は私が2人分の道具をなんとかそろえ、いきなり巨大鮒に挑戦するのだった。大きな赤い釣り用のバックに、釣り具に混じって旅行用品が入っているのだった。



いよいよ「貝沼」に着き、バス停を降りる。沼に行くにはやや上り坂になった道をしばらく歩く。周りは人家もほとんどなく、森に囲まれていて、いかつい肩の張った巨大鮒がいそうな気配が満点だ。

ところが「貝沼」を眼前にしてびっくりした。まず、想像していたよりはるかに小さく、ほんとうにただの「沼」だった。おまけに鬱蒼としているはずが、日当たりがよく明るい沼だった。とどめは秘境のはずなのに近所の子供達らしい数人が「キャッキャ!」と騒ぎながら泳いでいるではないか。それもちゃんと海水パンツをはいて・・・。



うーん。ほんとうにココは巨大鮒の貝沼なのだろうか...。



しかたがないので、子供達が泳いでいる堰堤側からなるべく離れ、ほんの少しでも秘境らしい雰囲気が漂う、奥まった場所に釣り座を構えた。竿は私が3.9m、友人が3.3mだ。ぽつんと一人で釣っている釣り人がいたので、見に行ってみると「亀有へら鮒釣り研究会」の帽子を被っていた。まだ1匹も釣れていないようだ。



マッシュポテトでエサを作り、釣り始めるとすぐにウキが動いた。と、釣れてきたの15センチほどの小さな真ブナだった。それからもけっこうアタリがあり、同じような小さな真ブナが釣れてくる。魚が釣れてくると、もう秘境の事など忘れてしまい、一生懸命竿を振り釣り続けた。



日が少し傾く頃になると、大きなアブが頻繁に飛んでくるので、道具を片づけ帰ることにした。ところが途中からまるで雲のように固まったアブの大群に追い回され、下り坂を必死に走ってバス停へ向かうことになった。道具を持ちながら顔や手にたかるアブを払うために手をグルグル回しながら走るので、さぞや滑稽な姿だっただろう。



ようやくバス停に着いてみると、また驚かされた。なんとまだ、5時すぎなのに今日のバスはもう無いのである。途方に暮れるというのはこのことだろう。



歩いて着ける距離でもないが、とぼとぼと駅へ向かって行った。不思議に困ったという感覚はなく、いざとなればなんとかなるつもりでいた。友人が竿ケースを持ち、私がバックを背にしながらしばらく歩いていると、後ろから車の近づいてくる音がする。



友人が試しに手をあげてみるとその車はすーっと止まってくれた。事情を話すと、快く車に乗せてくれた。運転手がいて後ろの席に人の良さそうな年輩の人が乗っていた。東京から「貝沼」にへら鮒という大きなフナを釣りにきたというと、驚くというよりあきれた顔をして笑いながら聞いてくれた。へら鮒は釣れたかと聞かれたので、釣れなかったと答えると、また笑って、それはご苦労だったと、遠征してきたことをねぎらってくれた。



そんな話をしているうちに車は小学校に入っていった。年輩の人は車を降り、当たり前のように職員室に入っていった。そして、そこにいた小学校の職員に、ちょこんと後ろにいる私たちを見ながら「この人たちを駅まで送っていってくれ」と指示を出してくれた。その時は私も友人も、ああこの人は校長先生かなにかなのだなと思った。



ところが、車を乗り換えて駅まで行く途中に聞いた話では、私たちが止めた車は、その町の町長の車で、さっきの年輩の人は佐藤東一という町長さんだった。私も友人もその話を聞いてびっくりしてしまった。気軽にへら鮒釣りの話などをしていたが、町長というと高校生だった私たちにはとんでもなく偉い人のように思えたからだ。



旅行から帰ってきて、覚えている範囲で「秋田県稲川町町長 佐藤東一様」とだけ書き、お礼の手紙を添えて、お茶を送ってみた。すると当時の郵便はたいしたもので、しばらくすると「職員一同でありがたく……」と書かれたハガキが送られてきた。<BR>

 私の初めての遠征釣行は巨大鮒は釣れなかったが、人の暖かさに触れた釣行になった。「貝沼」の巨大鮒の代わりに釣れたのは、稲川町町長の優しさだった。



【用語解説】

※アタリ 魚がエサを食べてウキが動くこと

※真ブナ 金ブナや銀ブナのことで、釣り人がへら鮒と区別するために使う呼び名

※へら鮒 フナの種類で50cmを超える大きさになる

【1】哀しい清水池公園

東京の目黒区に「清水池公園」という、無料でへら鮒を釣らせてくれる区営の池がある。池といってもそう大きな物ではなく、せいぜい周囲が1キロにも満たない大きさだ。私は中学生のころから「清水池公園」によく釣りにいった。京王線と井の頭線を乗り継ぎ渋谷まで出て、たしか「月光原小学校前」までバスで行ったように記憶している。世田谷区に住んでいた私がなぜ目黒区のこの池の存在を知っているかというと、そのころ私より1学年上の従兄弟が池のすぐ近くに住んでいて、泊まりにいった時などによく釣りをしたからだ。

高校に入ったばかりのころ、学校に当時愛読していた釣りの雑誌を持っていった。休み時間に読んでいると「君も釣りをやるの」と声をかけてきた同級生がいた。M君だった。まだまだ、クラスで友人などができるほど時間が経っていなかったので、私とM君とは釣りを通じてすぐに仲良くなった。ただ、M君は釣りはしなかった、というよりできなかった。M君はなぜかいつも右手に白い手袋をして、腕が動く事はなかった。理由はわからないが腕が不自由なのだった。

M君が清水池公園の近くに住んでいたので、何回もM君と池に釣りに行った。M君は器用に片手で自転車を操って見にきてくれた。そのたびに「エサはもう少し小さい方がいいよ」とか「オカユ練り」の作り方などを教わった。M君から教えてもらった清水池公園の必釣法に、ハリスにポマードを塗るというのがある。これはハリスにポマードを塗り、ウキではなく水面に浮いているハリスのフケ具合を見ながら合わせる釣りで、ほんとに良く釣れた。私が釣れる度にM君は自分が釣った時のように喜んでくれた。そんなM君だが私が「君も釣ってみれば」といくら誘ってもけっして竿を握ることはなかった。ただ彼の釣りの知識は相当なもので、当時私などが足下にも及ばなかったことだけは確かだ。

私がM君の腕について知ったのはほんの偶然からだった。従兄弟が目黒から新百合丘の家に引っ越し泊まりにいった折り、清水池公園の話になり自然にM君の話が出た。M君は従兄弟と同じ中学校で、従兄弟の同級生だった。従兄弟の家が医者だったせいもあり、私はM君の病気について詳しく知ることになった。M君が骨肉腫という病気で、中学3年の時に発病し腕を切断したことを知った。さらに彼の命がそんなに長くないことも知った。

私はその話を胸にしまいこんでだれにも話さないまま、相変わらずM君と遊んでいた。遊んでいる時のM君を見ているとそんな病気のことなど忘れてしまうほどで、一緒に笑い、一緒に喜ぶ清水池公園の釣りが続いた。

夏休みが過ぎてしばらくたったころ、M君が学校に来なくなった。先生の話では入院したので少し休むことになったそうだ。私はM君の入院先にもしばしば遊びに行った。M君と私とは将棋がちょうど同じくらいの強さで、勝ったり負けたリをくり返していた。一度などは将棋に熱中するあまり私のほうが貧血で倒れ、彼のベットに寝かせてもらったこともある。

M君のベットの近くには、英語を勉強するためのカセットデッキと教科書やノートがきちんと置かれてあった。M君は「また勉強が遅れちゃうな」といいながら気にしていた。

ただ、私は病院にいくたびにM君の頭髪が少なくなっていくことや顔色が優れないのを見て、もしかしたら従兄弟の家で聞いた話は本当かもしれないと思うようになっていた。

本格的な冬になる少し前にM君は亡くなった。私には信じられなかった。担任からその話を聞かされた時、クラスのほとんどが泣いた。担任も涙顔だった。しかし、私は泣かなかった。私はクラス全員で出席した葬儀にも行かなかった。私は葬儀の終わった次の日に彼の家に行った。M君は小さな写真になってしまっていた。

翌年もM君の家を訪れると彼の母親が「これを持っていってください」と彼が使っていた釣り道具を渡された。コイ釣りに使うブッコミ用のおもりや多数の釣り用具があった。竿もグラスロッドのコイ竿や数本のへら鮒竿があった。M君がどんなに釣りに熱中していたかが改めて伝わってきた。今でも時々、竿尻の少し上の部分に「M」のネームシールが貼ってある釣り竿を取り出してみる。

清水池公園には今でもウキが浮かんでいる。当時と変わったのは池の西側にあった睡蓮がなくなってしまい、池を囲う柵が作り替えられたことだろうか。清水池公園に浮かんでいるウキを眺めていると、片腕でドロップハンドルの自転車に乗ってくるM君の姿が甦ってくる。私がどんなに「君も釣ってみれば」と誘っても「僕はいいよ。見ているだけで」と少し哀しそうな笑顔で答えたM君の姿が。


【用語解説】
※清水池公園 都心部で珍しく釣りのできる池がある目黒区にある公園
※へら鮒 フナの種類で、この魚を専門に釣るファンも多い